美しいロマンと夢 ( 6 ) : 太陽の女人--大愛の為に。第三章 : 覚醒 ( 20 代~)

ご報告の自伝として、美しい世界のリーダー様に、MerryWorldのロマンと夢と使命と決心決意を、10章の系列に分けて、丁寧に、そして真摯にご報告いたしたく存じます






目録


はじめに

序詩 : (一) 太陽の女人
序詩 : (二) 美しい人生
序言 : 私のロマン、私の夢、大愛の為に。


幸運の文学少女

第一章 : 運命 (誕生~)
第二章 : 自覚 (10代~)


夢見る東洋の花

第三章 : 覚醒 (20代~)
第四章 : 挑戦 (30代~)


ロマンの太陽の女人

第五章 : 覚悟 (40代~)
第六章 : 美しい"人間革命" (只今~)


美しい世界リーダーへ

第七章 : 世界リーダーの基準
第八章 : 共に、一つの美しい世界――大愛の世界"MerryWorld美麗世界"を!


共に、人生を美寿に(みことに)!

第九章 : 永遠なる情熱の青春劇場!
第九章 : (美しき150歳まで!)
第十章 : 後世代に、美しい人生のモデルを。






夢見る東洋の花

第三章 : 覚醒 ( 20 代~)



20歳、時代を走る!中国大地を走る!



20歳、新年の決断:中学校の教師を辞任、延辺大学も自退学!

最愛の母の心強い理解で、20歳の大胆の決断でした。
中学校の教師を辞任し、延辺大学も中退し、
外国語大学に進学する、決意をしました。

中学校は、騒然となりました。
それもそうで、当時は、国が配置する職業が全てで、
又、中学校教師という職業も、延辺大学の学生も、
同年代の人達にとっては、とても憧れの対象でしたので。
多分当時は、吉林省の全体でも、中学校の教師を辞任するという事は、
私が初めかも知りません。

後でわかったのですが、恩師の校長先生は、
若い弟子の"無謀な決断"をとても心配して、

自ら教育委員会に特別にお願いして、教育委員会初の、
私の中学校教師の籍を2年間保留してくださったのです。
今も、当時の恩師の慈愛に思うと、涙が出る程心が熱くなります。

延辺大学の事は、転学の可能性を相談したところ、
前例が無いし、不可能だとの事で、無理をせずに、

一年生の第二学期(冬休みの授業)を最後に、退学しました。
当時の中国は、延辺大学にかかわらず、大学の転学はあり得ない時代でした。




20歳の初春、北京経由で、中国の南部都市――桂林へ!

初春の3月、母の友人(当時は叔父と呼ぶ)と、30代の実の姉と、
3人で、北京経由で、桂林に向かいました。

同時の中国東北地方は、初春と言っても、
未だ雪の真っ白な真冬のようで、気温が-30℃前後でとても寒かったのです。

先ずは、約30時間の列車に乗って、北京に辿り着きました。
2度目の北京!今度は只の青春謳歌の旅ではなく、夢膨らむ希望の北京でした。

又の二度目の天安門広場で、偶然にも、コリアン系の米国人観光客と出会い、
共に観光し、共に食事をする等、破格の思い出まで創りました。
当時の北京には未だ、外国の観光客が少ない時代でしたので
中国と米国のコリアンが、天安門広場で出会うなんて、奇跡的な事でした。

翌日、桂林行きの列車に乗りました。
外の風景は、白い雪から、段々、緑色に変わりつつありました。

約70時間、やっと桂林に到着しました。
あ~、なんと暖かい天気でしょう!
陽春の桂林は、なんと30℃くらいありました。

東北地方の-30℃から、南地方の30℃!
同じ時期の同じ中国なのに、気温差が、なんと60℃を超えていました。
又、列車に乗った時間だけで、合計してみたら、なんと100時間くらいでした。
中国大地の広大さを実感する旅でした。




20歳の陽春、美しい桂林! 驚くばかりの事でした。

世界各国からの観光客が、最初に訪ねた中国の観光都市は、
首都北京と、次には、美しい自然で有名な南部都市――桂林でした。

像鼻山、六滴岩……大好きなヤシの木、バナナの木、パイナップル……
風景も、木も、実も、大好きですが、その中でも一番感動を与えてくれたのは、
漓江の船の上から眺めた、美しい漓江山水の風景でした。
透き通って綺麗な水(当時は)、淡い霧の中で綺麗に立っている山々、
ゆっくり流れている船の上で、じっと眺めていると、まるで、
一幅の美しい絵の中でいるようで、現実を忘れさせてくれました。

もっと驚く事は、姉と泊まった、桂林漓江ホテルの事でした。
もっと正確に言えば、漓江ホテルの一泊の宿泊料金と、
ホテルバーの一皿のバナナアイスクリームの価格でした。
一泊の宿泊料金が、なんと、私の3カ月分の給料に当てはまる金額で、
小さなアイスクリーム一皿が、私の給料のほぼ半月分でした!
当時、私の中学校教師としての初任給は、60元くらいでしたから。
当時は、未だ改革開放初期で、中国の全てのバランスが整ってない時代でした。

それと、日本、アメリカ、ヨーロッパからの観光客は、当たり前の事ですが、
驚いたのは、母の母国である韓国からの観光客が多かった事でした。
当時は未だ、中韓国交が正常化出来て無いため、

母は、40余年間、母国の故郷に帰れずに悲しんでいましたからです。
当時の韓国の観光客は、香港経由で、中国に入境していました。




20歳の真夏:桂林から、又の北京経由で、大連へ!

あっという間に真夏が来て、桂林の先輩の斡旋で、
日本語の教育に強い大連外国語大学を受験する事に決めました。

当時代は、外国語の人材が全国的に必要な時代でしたので、
外国語大学には、社会人向けの社会人クラスが特別に設けられていました。

今度は、又の北京経由で、大連に行く事に成りました。
桂林先輩の気遣いで、贅沢にも、飛行機で大連へ向かう事に成りました。

私の人生、初の飛行機でした。先輩には感謝でした。
当時は未だ、大学生が飛行機を乗るなんて、あり得ない時代でした。





20歳の秋、遂に、大連外国語大学へ!



20歳の初秋、大連外国語大学に入学

87年8月中旬、大学に着いて、応募した社会人達と受験に参加しました。
その中から、幸運にも私を含めた二人が、社会人クラスではなく、
日本語学部の本科生クラス(旅行日本語班)に、推薦編入されました。
当時代は、中国の正規の専門学校か短大卒業の人は、受験をして直接、
4年制大学の2年生か3年生に、編入される教育制度も有りました。

1年後の88年9月、自ら、日本語学部長(田國軍先生)と相談して、
日本語学部の社会人クラス・高級クラスに変更編入を決めました。

(日本語学部の社会人クラスは、初、中、高級に、分けられていました。)
社会人の経験がある私にとっては、本科生クラスより社会人クラスが、
色んな面で柔軟性が有って、効率的で、楽しいような気がしました。




日本語の先生、日本人の先生との交流は、常の事でした。

日本語学部には、日本人先生が4~5人いました。
戦争残留孤児の年配の女子先生もお一人いました。

先生に附いて行って、大連賓館のレストランで、初めての、
日本カレーを食べたり、寿司を食べたり、しました。
又、賓館一階にある日本式のカラオケで、初めて日本カラオケで歌を歌いました。
大連での大学時代は、学生達よりも先生との付き合いが、多かったのです。

一番印象に残った事は、大胆の"初の中国縦断旅行案内"でした。
89年のお正月の休み、日本語の小島先生の友人が大連に来ました。
先生から桂林までの案内を頼まれたので (先生も、私と桂林の縁を分っておりましたので)、
私は喜んで、"大連から、北京、桂林、広州までの中国縦断旅行企画"を提案しました。
当時の私は、旅行をした経験はありますが、
未だ、旅行を案内した経験は一切ありませんでした。

桂林は、故郷の先輩がいましたので、助かりましたが、
私も初めでの広州は、地元の情報が少なく、とても大変でした。
なんとか無事に一周して大連に戻って来ましたが、
今も当時の事を振り返ると、
大胆過ぎる22歳の自分に、背中が冷えます。




外国語の勉強は、外国人との直接交流が大事に

幼少期からの多文化環境で成長し、
後の北京と桂林で面白い体験も有りましたので、

私は既に、人との交流が大好きで、
外国人とも距離感が全然無い人に成っていました。
基本の授業時間と視聴室での聴力アップ以外の時間は、
直接外国人と、或い先生を含む社会人との交流に力を入れました。

積極的に、日本語学部か、英語、ロシア語……、
別の学部の学生達とチームを群で、

日本人、米国人、カナダ人、ロシア人、、、達との、
直接の交流を図りました。

当時の大連は、週末になると、都市中心の中山広場の付近で、
自然と、"英語広場"、"日本語広場"……等の、

国際交流の集まりが、出来上がっていました。
学生たちは、そこで其々のチームを群で、交流・勉強したり、
或いは、チームを群で好きな処に行動して、交流・勉強したり、、、
とりあえず、国際交流がとても盛んでおりました。

印象深かった交流は、ロシア人青年たちとの食事会でした。
ロシア語学部の男子学生2人に誘ってくれました。

親友の同じ日本語学部の崔玲玲と一緒に、
富華ホテルで開かれる、ロシア人食事会に参加しました。
ロシア人青年5人が、飲食品等を準備して、待っていました。
私と崔玲玲は、ロシア語がほとんどできませんでしたが、
ロシア語学部の友人の通訳も有って、あっという間に溶け込みました。
親切で大らかなロシア青年たちとの交流・勉強会、
今も良い思い出として、深く残っております。




大学時代と言えば、"89年6月事件"も思い出します。

卒業一年前の89年6月に、北京で大学生達の"民主化運動"が起きました
一緒に参加しないかと、誘う友人もいました。
故郷の母からも、母の友人からも、
"絶対参加したらいけない"と、心配の連絡も有りました。
但し、私が興味を示さなかったのは別に理由がありました。

一つは、中国は、自由・平等・平和・発展の為に、
既に、改革開放の道を走り出していましたし、
又の角度を変えて見れば、改革開放の初期の中国は、

未だ、全国の経済発展が極めて不均等で、
国民意識も民主主権を履行できるレベルに達していませんでした。
当時の中国事情は、薄識の私さえも、簡単に解る状況でした。

二番目の理由は、北京に行く学生たちの、不真面目な態度でした。
"革命"的な真摯な態度のところか、笑ったり、ふざけたり……

何処から見ても、只の北京の旅行にしか見えませんでした。(少なくとも私の眼には)
私は、北京には何回も行っていましたので、行く興味すら湧かなかったのです。




23歳の夏、いよいよ大学の卒業、就職先は北京へ!

90年6月、いよいよ大連外国語大学も卒業を迎えました。
18歳の時の師範学校卒業と全然違って、淋しさ等、一切ありませんでした。
1年前から、就職先を北京と決めましたので、就職先を選ぶ事に全力を注ぎました。
当年の90年9月には、北京初のアジア競技大会が予定されていましたので、
私のような外国語を学んだ人にとっては、北京就職の絶好のチャンスでした。

北京の中央放送局で勤務している大先輩に、手紙を出したところ、
"北京には、貴方のような外国語の人材が、大々的に必要だから、

とりあえず、出来れば早く北京に来た方が良い。"との、嬉しい返事でしたので、
やっと6月末の卒業まで待って、遂に希望溢れる北京へ旅たちました。

ありがとう母校よ、さよなら大連よ、
北京で必ず成功するからね!!




23歳の秋、首都北京、夢見る東洋の花!



米国アジア太平洋投資会社・中国本社(北京)に就職

1990年7月、北京にての初就職先は、北京青年旅行社でした。
桂林先輩の勤務先と同じく、中国青年旅行会社の系列の会社でした。
しかし、就職の一か月くらいで、
とても運命的な会社と、出会ってしまいました。

旅行会社のマネージャーに附いて、会社の宣伝の為に、
外資系企業を幅広く回っている途中の、8月初め頃の出会いでした。

先輩と一緒に、北京首都ホテルに所在している、米国系の会社を訪問したところで、
当会社の会長のポール・チャン先生に入社を強く勧められたのです。
そして、なんと、当日に入社が決まりました。
そして又、当日その場で、会長の指示に従い、運動靴に穿き変え、
ゴルフ場に附いて行きました。
(勿論、旅行会社のマネージャーの同意の下ですが。)

この運命的な会社こと、正に私の人生で忘れられない、
米国アジア太平洋投資会社・中国本社(北京)です。
社会新人の私を、一気に世界の舞台へと導いてくれた会社です。

会長が、私に"一目ぼれ"したのは、それなりの理由が有りました。
ポール・チャン会長は、コリアン系の米国人で、奥様が日本人でした。
会長にとって、中国語と日本語と韓国語が出来る私が、
最適の秘書に見えたでしょう。

このようにして私は、当時、中国が一番必要とする、
米国投資会社の会長の秘書と成りました。
23歳の青春に、又の飛躍が起きました。
(当時は、中日韓の交流が、これからという時期でした。)




世界中のグローバル企業家、数多い中国リーダーとの出会い

会長に附いて、世界中からいらしたグローバル企業家達の接待に急ぎました。
又、数多い中国のリーダー達と頻繁に会い、商談をしたり、食事をしたり……

緊張はしますが、とても新鮮で、充実な日々を過ごしました。
当時に出会った、北京副市长の陈建明先生,天津市长の李瑞环先生,
中国改革開放の第一号都市、深圳市の袁先生、政治協商議員の叶仁寿先生……
リーダー達の優しい笑顔は、未だに心に焼き付いています。
一言で、リーダーは優しい!!でした。

会社は、幅広い分野と、幅広い地域の、投資の相談を乗りました。
ゴルフ場への投資から、チンギスハーン映画の製作まで……
幅広い分野に投資を行いました。
北の内モンゴルに行ったり、南の深圳を飛び回ったり、
会長は、一時も静かに、休む時期がありませんでした。

会長はゴルフが大好きでしたので、男子秘書の泰成男と私は、
常に、会長に附いて、ゴルフ場を回りました。
会長が中国の色んな地域に商談に回る時も、附いて回りました。
そのお陰様で、23歳で、北の西安と内モンゴルから、南の広州と深圳まで……
中国の色んな地域に、学びの青春の足跡を、沢山残しました。




1990北京・アジア競技大会! そして、美しい東洋の花!

北京での数多い思い出の中で、やはり一番は北京・アジア競技大会です。
当時、会長は、世界各国から来る友人たちの為に、沢山の観覧チケットを購入しました。

ホテルも、競技場近くの亜太大厦の何階かを丸借りして、
米国、カナダ、日本、韓国から、家族と親せき、友人達を、
北京に招待しました。

私達は、来客と同行して、アジア競技大会の開会式に参加しました。
未だに記憶に鮮明ですが、皆観覧席の一番前の席に座って、
壮烈で熱烈な、世界平和と友好の雰囲気を、満喫しました。

印象に残った場面の一つは、朝鮮選手と韓国選手達の並んでの入場でした。
冷戦状態40年の、敵視していた二つの国が、
平和友好的に並んで入場した瞬間、全場が熱烈の拍手を送りました。
何時の時代でも、何処の場所でも、
平和は感動のもの、美しいものですね!

この感動の北京アジア競技大会を前後にして、
私個人の心にも、大きな感動の波紋が起き始めました。

周囲から特別な存在として認められ、褒め言葉と励まし言葉を、沢山頂きました。
中、日、韓語が出来て、一所懸命の青春真っ最中の私を、
会長と中国本社の代表の鄭重鶴先生は勿論、
海外からのお客様からも、沢山の褒め言葉を頂きました。
その褒め言葉の中で、一番の心に響いたお言葉は、
"金さんは正に、美しい東洋の花ですね!"でした。

あぁ、東洋の花!美しい東洋の花!!
そう、私はアジア平和の為の、美しい東洋の花なんだ!!

優しい大先輩たちの、大事な励ましのお言葉を、
純粋でポジティブな私は、真に受け入れました。
そして私は、本気で、アジアの平和の為に頑張る、
美しい東洋の花に成る事を、心に決めました。




何事も熱心な私は、会長の信頼と期待を一身に受けました。

当時の会長は57歳で、ちょうど55歳で亡くなった私の父と同じ位の年齢でした。
無意識的に、最愛の父と重なり、会長の健康と心悦を、常に真心で気遣いました。

毎日、新鮮な果物を用意して、綺麗に剥いて盛り合わせて、会長のテーブルに置きました。
又、中国人のお手伝いさんが、韓国料理が全然知らなかったので、
私自ら人生初の韓国料理(韓国料理らしい物)にも、挑戦しました。
子供の時に食べた、母の手料理を真似してみました。
(当時、全北京市内に、韓国式料理屋が2軒しか無かった時代です。)

会長は、真心で熱心な私を、とても大事にしてくださいました。
勤務2年後には、公費で日本留学に派遣すると、約束もしてくださいました。

ご自分が大好きなゴルフ場の経営を、日本で学んで来る事を期待していました。

当時の北京は、ゴルフ場が出来たばかりの時代で、
全北京で僅か二か所しかなく、その中の一か所である、
北京郷村ゴルフ倶楽部には、弊社の投資も少し入っていました。
当時の私は、ゴルフを打つことはあまり好きではなかったですが、
とりあえず、日本留学という事で嬉しく、期待感でいっぱいでした。
(今も、室外でのスポーツより、室内での踊りとか歌が好きです。)

又、念願の、母を北京に向かえて来たく、会長に相談したところ、
会長も喜んで、大歓迎でした。

"紅実のお母さまがいらしたら、美味しい韓国のキムチも食べられるね"と。
私は、念願の母と一緒に住めると思って、飛ぶ様な気持ちでした。
又、私が日本に留学に行ったとしても、母が北京に住んでいれば、
連絡が取りやすいからでした。

全ての夢が、思うままに、
いいえ、思う以上に、順調に進んで行きました。





23歳の冬、夢の天国から、地獄へ!



お母さん、お母さん、お母さん……!!!

夢真っ最中23歳の初冬、青天霹靂の出来事が、起きました。
23歳までの人生で、一番怖がった一番の恐ろしい出来事が、
夢真っ只中の23歳の初冬に、起きでしまったのです!
最愛の母が……
私は、夢の天国から一転、激痛の地獄に落ちました!

お母さん、お母さん、お母さん……!!!
昼も夜も泣きながら、お母さんばかり呼び続けました。

23歳の人生、初めての、耐えられない悲しさ、苦しさ、切なさが、押し付けて来ました。
生まれて初めて、"心が痛い"の表現が、只の形容詞では無く、
"本当に胸が引き裂けるような激痛"だという事を、実に体験しました。
衝撃と、絶望と、悲しみと、二度と会えない切なさと……胸が詰まりました。

一生分の涙を流しました。
一か月で、8キロ痩せました。

母と一緒に住んで、母と手を繋いて散歩して、母を喜ばせて……
念願の夢は、美しい夢は、悲惨に散々割れてしまいました。
この悲しさと切なさは、言葉で表現しきれない程でした。




一生の悔い!私には、親孝行のチャンスが無い!

母が、何回も、私と一緒に住みたいと言い続けたのに、
その願いさえ叶えて上げる事が出来ない!
二度と、母を喜ばせたり、母と喜びを分かち合えたり、できない!虚しかったです。

幼い23歳の人生で、既に、親孝行のチャンスを永遠に失った事を、心痛く実感しました。
一生の悔い、人生唯一の悔いが、心の真ん中にぐっきり、大きな穴をあけてしまいました。

自分を責め続けました。
11年前に、父を亡くして入院までした母が、

11年間、一人で寂しく、父の事を思って過ごしていた事を、
(勿論姉たちは傍にいましたが)
もう少し早めに配慮できれば良かったのです。
一時も休む暇なしに、23歳まで、精いっぱい、前だけ見て奔って来た、
余裕が無かった自分を、無能の自分を、激しく責め続けました。

実は、母側の家系は、長生きの家系でした。
お婆さん(母の母)が、その時代に85歳まで生きていらしたと、

韓国からの叔父(母の実の弟)の手紙に、書いてありました。
又、その叔父も、今年89歳で現在も韓国で元気にすごしています。

その長生きの家系の母が、
まさかの63歳の若さで、行ってしまうなんで、
想像もできませんでした。




母への一番の心残り、そして国境って何??

もう一つ、母への心の残りは、
40余年ぶりの里帰り(韓国の訪問)を心待ちしていたのに、
結局、故郷の土も踏めずに、行ってしまった事でした。

母は最後に、意識が朦朧していながらも、姉が耳元で、
"お母さん、韓国に行けるように頑張って!"と囁いたら、
突然、目を覚めて、確り立ち座りながら、
"本当に韓国に行けるの??一回だけでも良いから、帰りたいね……"と、
人生最後の、呟きをしたそうです。

あぁ、国境って何?? 国境って、一体、何??
何故、目の先に故郷が有るのに、一回帰る事さえ出来ないのか??

国境って、何の為に、誰の為に、出来たものなのか??
国境って、何の為に、誰の為に、存在し続けるものなのか??
10代で、一度、深刻に思って事がある疑問を、
20代に、改めて、心痛く浮かび出しました。

この第三章の後半部分に、改めて詳しく申し上げると思いますが、
母が無くなってから1年半後の、1992年4月末に
(中韓国交正常化の約3~4カ月前に。中韓国交正常化は1992年8月15日)、
私は、日本から韓国へ、両親の母国へ、初訪問を果たしました。

両親の遺影を確り抱いて、両親と共に、両親の母国を、旅をしました。
今も、我が家の一番落ち着く所には、両親の遺影が立っておりまして、
その前には常に、季節ごとのお花と、新鮮果物と軽食品が、置かれてあります。
私の人生で、唯一の悔い、一生の悔いを、償い続けております。





24歳の春、人間愛で、引き続き夢を!



地獄の中で、又の暖かい人間愛

会社のポール・チャン会長は、誰よりも私の衝撃を、分ってくださいました。
会長は、あらゆる方法で、私を慰めてくださいました。

二年後に予定していた日本への派遣留学を、早める事を提案してくださいました。
悲しみから早く立ち直るように、環境を変えて上げたい、親心でしょう。

会社の中国本社の代表である鄭重鶴先生と奥様も、
自分たちの娘のように、私を愛しがりました。

悲しむ私を、慰めたり、励ましたり、
ご自宅に招待してご馳走させたり……
鄭重鶴先生は又、日本に住んでいる息子さんを北京に呼んで、
私を紹介する同時に、日本留学手続きの書類を息子さんに渡しました。

仲良し同僚先輩の呂成東さんも、静かに真心の提案をしてくれました。
只今、自分の日本留学ビザが下りて来たので、
紅実も自分と一緒に、早く日本に行かないか、と。

ここで簡単に、ご縁の呂成東先輩の事を申し上げますと:
北京にての一番の仲良し同僚先輩で、北京で大学院まで卒業した優秀な人材です。
私より半年前に日本に留学来て、
私の初日本上陸の時に、空港まで迎えに来てくれた先輩です。
今も日本で、建築設計師として、頑張っております。




24歳当時、東洋の花の道は、
旅行会社経営とカラオケ倶楽部運営でした。


母も私も旅行が大好きで、母も私も歌が大好きでした。
ちょうど、観光ブームが起きている中国、
日本のカラオケ文化が入ったばかりの北京で、

個人の趣味と時代の流れが、ぴったりマッチングしていましたので、
ポジティブで大胆の私は、
世界を飛び回る旅行会社を経営したい!
思いっきり歌えるカラオケ倶楽部を運営したい!
夢の道を、具体化し始めました。

旅行会社の事は、自分の経験上、未だ早いような気がしましたので、
先ずは、大好きなカラオケ倶楽部を模索し始めました。

当時の中国のカラオケ文化に関して、簡単に追加説明しますと:
1990年代初の、北京のカラオケ倶楽部と言えば、
"健全な、レストランの延長線での、歌えるカラオケの舞台"という概念でした。
ちなみに、日本と韓国で流行っている"風俗"という概念とは、全然違う業種でした。
例えば、倶楽部の広々のホールには、軽飲食を運ぶウェーターがいるだけでした。
当時の中国当局は、"風俗らしい事"に関して、とても厳しく取り締まりし、
一旦発覚されたら、"法律違反の重大の犯罪"として扱われ、
刑務所まで入る事件として、扱われる時代でした。

当時の北京市は未だ、全市で2軒のカラオケ倶楽部しか無い時代でした。
一軒は、北京のメインの通り、長安街に面している有名のホテル、

五つ星ホテルの国際飯店2階にある、約1000㎡~規模の、大型カラオケ倶楽部で
韓国式レストラン"宝杯園"の所属でした。
もう一軒は、北京市の東大橋付近にある、日本風カラオケ倶楽部"美恵"でした。
30㎡くらいの広さで、日本留学から帰国した、中国人留学生が運営していました。

私は、北京メイン通り、長安街のある、国際ホテル2階の、
広々なカラオケ倶楽部を、実現したい理想像として覚えました。




日本留学と北京での事業、両手の準備を。結果、日本留学に!

自由奔放な私は、制限と責任が付いて来る公費の留学より、
自由の身動きができる、自費の留学の道を、選択しました。

仲良し同僚先輩の呂成東さんに、日本九州語学学院の中国総代理人である
許龍進先生を紹介して貰いました。
そして、全ての留学の手続きを、許先生に一任しました。

ビザの許可を待つ同時に、私は会長にカラオケ倶楽部の運営を相談しました。
当時代の日本留学のビザは、許可率が低かったため(米国留学が一番厳しい)、

ビザが拒否された場合を備えての、北京での事業の準備でした。
大らかな会長は、自費留学を選択する私の正直な気持ちも、
そして、慎重な両道の準備も、大賛成でした。

会長は、1990年アジア競技大会の契機に移転してきた会社の所在のビル、
新築の現代化ビル――亜太大厦の2階が良いにではないかと、私に勧めました。

勿論、私も賛成でした。そして、当たり前のように、会長も、私も、
倶楽部の雰囲気を"中、日、韓、三か国文化のマッチング"に、一致しました。

1991年の秋、日本本国外務省から、"ビザ許可通知"が届きました。
とても嬉しかったです。
日本留学に向かって、パスポートの申請、日本学校への授業料の振込、
ビザの正式取得、会社業務のバトンタッチ……

一連の準備を終えて、12月末に、正式に心の会社を退社しました。
会社の送別パーティーに、会長の暖かく寂しい送り言葉に、
私の涙は、又に、止まりませんでした。
一部の同僚も、一緒に、泣きました。

ありがとう!!親なる青春の導師よ!!
ありがとう!!美しい青春を、逞しく鍛えてくれた、世界の舞台よ!!
恩返しのその日まで、待ってくれ!!
尊敬するポール・チャン会長と鄭重鶴代表は、永遠に、我が心に活きるでしょう。




日本留学初期費用全額を、応援してくださった中国企業家に感謝!

日本留学に関しまして、忘れられないもう一人の恩人がいます。
初の日本学校の授業料全額と、日本行きのチケット代金まで、
合計約50万円を、一括で応援してくださった、大愛の中国企業家です。

1991年の当時の中国で、50万円という金額はとても大きな金額で、
外資系で働いている私達の給料の約150カ月分(約12~13年分)、
中学校教師の平均給料の約500カ月分(約40年分)に、相当しました。

(当時の改革開放初期の中国は、未だ閉鎖的な地域がほとんどで、
中国の全国の物価の平均も、米国と日本と比較して100~200分の1程度で、
また、国民の大体の費用は、全て政府が負担しましたので、
中国国内での国民の生活は、とても裕足でした。
当時の、中国に来た外国人は、人民元を使えずに、外国人専門の"外汇券"にみでした。
当時から約10年後の、2001年12月11日に中国のWTO加入資格が発効しました。
世界で143番目のWTO加盟国家でした。)

日本の正式のビザを取得する前に段階で(ビザ許可通知を受けた段階で)、
38万円の授業料を日本の学校に振り込まなければいけませんでした。

会長の提案の公費の留学をお断りしましたので、会長にお願いする面子が無かったのです。
悩んだ末に、会社の仕事で出会った、崔秀真会長を思い出しました。
中国の第一代のグローバル民営企業家で
世界と資源の貿易する総合会社――黒龍江省貿易開発総会社の会長でした。
当時、全中国で、13番目規模の民営企業の会長でした。(当時40代前半)

自分の夢には、そして自分の人格にも、自信が有りました。
私はとりあえず連絡して"是非、一回会ってください!"と、

堂々かつ、丁寧にと申し込みました。
さすがのパワーふるグローバル企業家で、すぐ承諾してください、
今、ちょうど北京にいるから、会社の事務所に来い、との事でした。

興奮半分、緊張半分、当時北京で一番高いビルでした京広中心大厦に向かいました。
24歳の私の、一所懸命の説明を、情熱の夢の訴えを、静かに聞いていらした崔会長は、

その場で、電話機を取り、シンガポールの支社に連絡をしました。
すぐ日本の学校、日本九州語学学院への入金するように、部下に指示しました。
当時の中国は、中国から海外への入金がとても複雑で、
また簡単に認めない時期でしたので、シンガポール支社に電話したのです。
崔会長とお会いして、2時間もかからないうちに、全てが終わりました。
24歳の私にとっては、奇跡の出来事でした!

今も記憶に鮮明ですが、当時崔会長は1000ドル(米国紙幣)を私に渡しながら、
このような、宝のお言葉を残しました。

"日本は資本主義国家ですので、やむを得ずにお金の為に、女の子が、
夜の世界に落ちる事もあるから、お金が足らない時は何時でも連絡ください。"と。
どんなに心強いお言葉でしょう!!
社会先輩としての、優しい人間愛のお言葉を、決して忘れはしません!

真心の力と、夢の力、情熱の力、人間愛の力は、美しく強いですね!!
最後に、一言葉追加しますと:

同時、この感動の一話を、会社のポール・チャン会長にお話ししましたところ、
何の見返りも無い中国の企業家の大らかな応援に、会長も驚きながら、
部下の成長を大変喜びました。





24歳の最後の日、日本留学へ!



24歳の新年早々、1992年1月4日、初の日本上陸!

母への悲しみ、北京での夢の道、等を、一旦置いといて
25歳の誕生日を一日前にして、日本へ飛びました!

特別に注文して作った、黒い長いコートを一身にして、気合を入れて、
惜しむ同僚たちの見送りの中、
24歳の青春は、夢に向かって、新たな旅を立ちました。

外国に行くという印象は、一切有りませんでした。
子供の時に両親から日本語と日本人の話を聞き慣れ、

中学校から日本語を学び、大学で日本人の先生に可愛がれ、
北京で数多い日本人と出会い、また日本人の奥様を持つ米国会長の下で鍛えられ……
留学という新しい道を歩む、新鮮感と期待感は有りましたが、
心の距離的には、丸で同じ国のお隣の街に行くような感じでした。

もう一つ、日本が他国に思えない大事な理由がありました。
それは、最愛の母の従弟が、日本に住んでいるからです。

韓国の叔父からの手紙に、"従弟は1940年台初めに日本に渡って行って、
今は、日本大阪で、日本人の女性と結婚して、幸せに過ごしています。"と、
書いてありましたからです。
大阪の詳しい住所は書いていなかったものの、その時に、
"私にも日本人の肉親がいるんだ!"と、
静かに感動した覚えが有りました。




初の福岡空港、北京時代の先輩同僚と再会!

日本の福岡の空港に着いたら、同僚先輩の呂成東さんが待っていました。
何時ものように、穏やかで優しい笑顔で、迎えてくれました。

先輩が事前に、私の家として借りて置いたマンションの一室には、
布団以外の、生活に必要用品一式が、綺麗に備えてありました。
テレビ、冷蔵庫、キッチン用品まで、揃っていました。
日本着いて最初の買い物は、布団一式だけでした。
確りした優しい実の兄のような、心が届いた用意でした。
そのお陰で、今も"お兄さん"と呼びながら、実の兄妹のように、
家族ぐるみで、親しく付き合っております。

この自伝を書きながら、今、ふと、思いついたのですが、
当時に、呂成東先輩が用意してくれた、日本初の家の、

敷金礼金等を、さっぱり忘れていたことに、気づきました!
敷金礼金はいくらで、テレビと冷蔵庫等はいくら掛ったのか、
一切聞く事もしませんでしたからです。
それぐらい仲が良かったという事ですね。





25歳の日本――
美しい春、美しい中日韓の人たち!



25歳に成って、初の日本登校!

日本に着いた翌日の1月5日は、私の25歳の誕生日でした。
25歳と成って、初の日本の学校、九州語学学院へ入学しました。

優しい院長先生と、日本人形のような可愛い日本語の先生(女子先生)、
そして、中国の北京から来た留学生たち、張寧さん、谷雨さん……
中国人民大学の学生会長経歴がある李東哲さん……
その時に出会った貴重な縁は、今も、深く、長く、続いております。

張寧さんとは、卒業式の司会を務めたり、
学院長と事務局は、北京まで案内したり、
九州語学学院での、僅かの6ヶ月間の間で、
日本語の勉強よりも、人々との付き合いがとても楽しかったです。




平和には、人々の心が一番大事!
九州大学教育学部・社会心理学科への進学準備


学院からの、今後の進路に関しての質問に、
迷わずに、今年中に九州大学に入学します、と、書きました。

そして、九州大学の教育学部に訪ねて行って、教育心理学の先生を探しました。
中国、日本、朝専半島の社会心理学を研究したかったのです。
アジアを一つにするのには、人々の心、社会心理が一番大事ですから。

九州大学の教育学部で、社会心理学を研究している狩野教授と面談をしました。
私の夢と希望を聞いた狩野教授は、喜んで、指導教官を承諾してくださいました。
それて、来る9月から狩野教授の指導の下で、心理学の勉強を始めて、
翌年の春に、大学院の受験をすることに、決めました。




中国駐福岡総領事館からの心強い推薦書!
真心の外交官、姜跃春領事に感謝!


九州大学入学の事務の手続き過程で、
中国駐福岡総領事館からの推薦書を求められました。

私の学歴は、小学校5年、中学校3年、師範学校4年、
延辺大学1年、大連外国語大学3年、合計16年ですが、
他の中国からの留学生たちと、学歴が違うとの理由からでした。
小学校が1年間足らなく、高校3年間が無く、代りに師範学校が4年間、
そして、大学も二つを跨っているからです。

私は早速、中国駐福岡総領事館連絡して、相談をしました。
中国と日本、両国の諸事情に詳しい姜跃春領事は、その場で、

九州大学宛に、総領事館からの特別の推薦書を出してくれる事を、承諾しました。
母国の心強い支えに、とても感動しました。
改めて、真心の外交官、姜跃春領事に、心より感謝いたします!




又の、真心の外交官、韓国の李哲男領事に感謝!

九州大学の入学も決まり、心が少し落ち着いたところで、
最愛の母の事が、又、切実に恋しく成って来ました。

大好きな世界地図を出してみると、母の故郷の韓国珍島が、
日本福岡の、目の先に有りました。
私は、胸が熱く成りました!
韓国に行って、母と一番似ている、叔父の手を触ってみたい!

当時は未だ、中韓国交が無かった時代でしたので、
韓国駐日福岡総領事館に連絡して、李哲男領事と面談をお願いしました。

私の切ない心の訴えを聞いた李哲男領事は、その場で、
韓国ビザを特別に発給してくれることを、承諾しました。
正に、心ある処に道あり!でした。

三日後に、人生初の韓国ビザを取得しました。
中韓国交正常化5カ月前でした。
真心の外交官、李哲男領事にも、心より感謝いたします。





初の韓国上陸!(両親の母国へ)
韓国叔父との感動の初対面、そして……



韓国の叔父と、感動の初対面!

25歳の春、1992年4月27日、私は父と母の写真を胸に抱いて、
日本の福岡空港から、韓国釜山空港に向かって、飛びました。

そして、僅か50分後に、父と母の母国、韓国釜山の土を踏みました。
25歳の春、1992年4月27日、最愛の母の代りに、念願の、韓国上陸を
両親が、朝鮮半島を離れて、約40余年ぶりでした。

涙が流れました。涙が止まりませんでした。
韓国に着いた喜びの涙ではなく、両親を思う悲しい涙でした。

韓国釜山にも知り合いの先輩がいましたので、
勧めて通りに、釜山・海雲台パラダイスホテルに宿泊を決め、
少し落ち着いたところで、母の実家・珍島叔父の家に電話しました。

そして、生まれて初めて、韓国叔父と、感動の対面を果たしました。
とても嬉しく、とても悲しい、また、とても嬉しい、感動の対面でした。

私は、一瞬も、叔父の手を放しませんでした。
叔父も夢のようで、ずっと私の顔を愛しく見つめておりました。
寝て朝起きたら、ベッドの横には、
叔父から愛しい姪宛の、感動の長い手紙が置いてありました。




そして、衝撃の重大発見!
我が家の、皮肉な "三人の戦争英雄"


韓国に叔父と感動の対面から1~2日間経ったところ、
偶然にも、韓国の叔父から、耳を疑う程の、衝撃的な過去の話を聞きました。

それは、韓国の叔父は、まさかの、韓国の有功者(朝鮮半島戦争英雄)でした!
有功者という事は、1950年代初めの朝鮮戦争に参戦した功績がある、
韓国国軍の事です。(朝鮮戦争:1950年6月25日~1953年7月27日)

実は、中国の我が家族にも、自慢の戦争英雄が、二人もいたからです。
二人は、父の実の弟と、父の実の妹の夫が、正に朝鮮戦争に参戦した英雄でした。

話にならない皮肉の事ですが、解りやすく説明すると、
私の父の実の弟二人が、中国の抗米援朝軍として、朝鮮軍と一緒に北から、
私の母の実の弟一人が、韓国の国軍として、朝鮮半島の南から、
朝鮮半島で、肉親同士が銃を向き合って、戦って、殺し合った、事でした。
(一人の叔父(父の弟)は、戦死して、中国政府から英雄勲章を授与されたし、
もう一人の叔父は、地元の輝南県総合運輸会社の総支配人を勤めました。)

又、皮肉の事は、三人の叔父の戦争英雄は、其々の国で英雄として大事にされましたが、
"お陰で"、最愛の母は、一生を生き別れの悲しみを耐えましたし、

最後まで、故郷の土を踏めずに、悔いを抱いたまま、亡くなってしまったのです。
私は、叔父には何も言わなかったものの、心はとても複雑でした。
正直に、我が家の皮肉は"三人の戦争英雄を"、どの様に理解すれば良いか、
戸惑いました。

子供の時から、歴史小説が大好きで、
中学校の時も歴史科目が好きで、後に、中学校の歴史教師をする程、

歴史に対しては興味が深く敏感でした。
勿論、我が家の家族史も、とても大事にしておりました。
(三人の戦争英雄:父の弟の金昌南、父の義弟の黄正洙、母の弟の朴東淵)


戦争は、誰の為だろう??
国境は、何のためだろう??





日本叔父との、感動の初対面!


韓国の叔父との初対面の感動の旅行を満喫した後、
日本に戻って来て、日本の叔父に連絡しました。

韓国の叔父から、日本の叔父の住所と自宅の電話番号をもらいましたので。
叔父が住んでいる、大阪に向かいました。大阪駅まで迎えに来てくれました。
叔父は、一面識もない姪の私を、強く抱きしめながら、涙を流しました。
そして、直接、淀川駅近くの自宅に案内しました。

家には、日本人の叔母が、料理を作って待っておりました。
叔母は、殆ど韓国語が出来ませんでしたが、

娘二人を韓国語を学ばせる為に、韓国のソウルに留学させたと言っておりました。

叔父は、母より3歳年下1929年生まれで、
母が中国に渡る同じ時期の1940年代初に、朝鮮半島を離れて、
13歳の年に、実の兄に附いて日本に渡って来たそうです。

私の母とは、すぐ隣りで12~13歳までに一緒に成長し、一緒に遊んだり、したそうでした。
私の顔に母の面影があると、おっしゃっていました。

血は水より濃いし!でした。
本当に、良い時代に感謝でした。





遂に、九州大学へ!
歴史を学び、人類発展規律を探り、
人類社会の美しい未来を図りたい!



25歳の秋、九州大学へ入学!(教育学部・社会心理学科)

25歳の秋、1992年の9月(日本初上陸から、8カ月)、
肉親の愛を満喫したところで、いよいよ、九州大学入学でした。

先ずは、春に決まった通りに、教育学部・社会心理学科に入学しました。
留学生にとっては、大学院受験のための基本のコースである
大学の研究生として入学しました。

指導教授の狩野先生の下で、社会心理学を勉学しながら、
お隣の、文学部の歴史学科の授業も、同時に受けました。
日中韓の比較社会心理学の研究には、歴史の勉強が必需だからです。

文学部・東洋史学科の川勝守先生の授業は、社会的な閃きが多く、
とても充実感を感じさせ、私が実現したい夢に、直接役に立つ気がしました。

悩んだ末に、大学入学から約半年で、研究室を、
教育学部の社会心理学科から文学部の東洋史学科に、変更入学を決めました。
入学から半年後の1993年4月に、正式に文学部の東洋史学科に入学しました。

一直線で無我夢中で、頑固で妥協ができない、完璧主義の学生を、
狩野先生も、川勝先生も、大らかに応援してくださいました。




27歳の春、九州大学大学院へ入学!(文学研究科・史学科)

1994年3月、大学院受験の願書には、入学動機を、
"歴史を学び、人類発展規律を探りたいです。
そして、人類社会の美しい未来を図りたいです。"と、
明確に書き入れました。

そして、一か月後の陽春、1994年4月に、
九州大学大学院の大学院生として、
文学研究科史学科に、正式に入学しました。





歴史に学ぶ!
"地球は一つ、人類も一つ!
美しいリーダーが、美しい時代を導いて行く!
国境無しの、人類愛に満ち溢れる、美しい世界へ!"



九州大学大学院・文学研究科・史学科の研究室にて

川勝守先生のご指導の下で、関連研究テーマを研究し、
月に一回、研究室で発表することが、基本のルールーに成っていました。

日本本国の研究生以外に、中国、韓国、台湾からの留学生がいました。
小林聡先輩、宮崎先輩、中国からの蒋先輩……先輩たちも、皆、
同じ研究室で、研究をしておりました。

私は、川勝先生から、コリアンの移民史に関してテーマを、求められました。
私は、コリアン歴史にかかわらず、所謂、広範囲の地球上での人類の歴史、

宗教、国家、民族、文化……広範囲の資料を調達して読みました。
九大の図書館から、在日のコリアンから、韓国から、韓国の留学生たちから、
中国の中央民族大学と延辺大学から、また、北京大学と清華大学の知り合いから……

人類の歴史から、人類の発展規律を探り、美しい未来世界を図りたい!
大学院入学願書に書いた通りの、一通でした。

自分がコリアン系の中国人として、世界の為に貢献をしたかったのです。
いわば、未来に、人生の存在価値を実現する為です。

(勿論、川勝先生のご注文も、決して忘れませんでした。
卒業論文のテーマは、"19世紀末のコリアン系中国人の土地所有権に関して"でした。
地球の一人として、中国の一国民として、限られている地球上での土地所有権、
即ち、基本権利の一つである、土地の所有権に関して、情報を集めて見ました。)




歴史の勉強は、美しい未来の為である
人類社会は、過去より現在が、現在より未来が、大事


歴史(過去の記録)とは、其々の立場と角度によって、
一つの真実に対しての、記録が異なっております。

そして、其々の利害関係によって、意識的の造られる事も有ります。
それは、遠い過去に関わらず、昨日のところか、目の先で起こった事でも、
違う立場と角度と利害関係によって、
その記録が、即ち、その歴史の記録が、千差万別に成ります。

故に、人類歴史の勉強は、歴史の個々の歴史・過去の現象より、
人類の本質と人類社会発展規律を探り、未来に備える事が

歴史勉強の主な意味・価値だと思います
即ち、人類社会は、過去より現在が、現在より未来が大事です。

以下は、九州大学の4年間で、
歴史から学んだ、人類の本質と人類社会発展規律、
そして、私が切に描いた"美しい人類社会の未来像"です。




人類の誕生――宇宙、太陽、地球、そして人類

説によると、
50億年前に、宇宙に太陽が出来、
45億年前に、太陽系に地球が生まれ、
7億年前から、地球上の大陸が何個かに割れ、
千万年前には、遂に地球上に生命体が誕生しました。
そして180万年前に、地球上に万物の霊長たる人類が誕生しました。




地球は一つ、人類も一つ!

人類は又、
100余万年の狩猟採集時代を経て、

数千年の農耕時代を経て
二百余年の産業時代を経て、
只今、便利で豊かな情報文化時代に入りました。
(私の九州大学時代から25~26年過ぎた今は、人類は、デジタル革命により、
世界中の豊かな情報と美しい文化を満喫しています。)

人類は又、
長い間の、平均寿命20~30年と言う短命時代経て、

(つい100年前までも、平均寿命31年と言う短命時代)
絶え間ない努力と智慧で、踏ん張って、
遂に、やっと100年位まで、活きるように成りました。
そして、この貴重な100年を、どのようにして、美しく幸せに、
又、どのようにして、より格好よく活きるかを、
弛まず研究に研究を重ねています。




人類は、愛の産物で、
人類文化は、愛の文化です。


人類が、より美しく、より幸せに、より格好よく活きる為には、
欠かせられない、一番大事な要素は一つ有ります。
それは、愛、人間愛・人類愛・大愛と言うものです。


人類が地球上に誕生し、何百万年の歳月が流れ、
歴史が変わり、時代が変わっても、唯一変わらないものが一つあります。
それも正に、愛、人間愛・人類愛・大愛と言うものです。

人類は、愛の産物で、
人類文化は、愛の文化です。

人類は一人では活きて行けない愛の動物です。
お互いの尊重、尊敬、関心と配慮……、
大愛無しでは活きて行けない、思想の動物、心の動物であります。
人類は、大愛によって美しくも醜くも、幸せにも不幸せにもなります。

愛に満ち溢れる世界こそが、人類が一番に願う、美しい世界であります。




一地域文化は(一民族文化は)、一種の花;
地球・世界文化は(全人類文化は)、万花盛開の大花園!


又、人類の地域文化、言わば"民族文化"の、
形成と発展に関して振り返って見ると:

約170~180万年前に誕生した人類は、
狩猟採集の生存の過程で、生食の時代から、火を使う事により熟食へ発展し、
又の、道具の使用により人類生存の基本である
衣食住の環境が改善され、
より便利で豊かな生活を享受するように成りました。
其々の衣食住を基本とする文化が形成と発展を成し遂げて、
今の、それぞれの地域の文化――服装・居宅・飲食……の文化へと発展されました。
そして人類は又、意思の伝達の為に、其々の地域で其々の言語が発明され、
其々地域の文化と、更なる思想と哲学と宗教へと、発展継承されました。

一地域文化を(一民族文化を)、一種の花としたら
地球・世界文化は(全人類文化は)、万花盛開の大花園であります。

今の時代は、地球という大きな花園を共有する時代で、
其々の花が美しいからこそ、万花盛開の大花園が美しく;
平和で豊かな大花園があるからこそ、
その大花園の一凛一凛の花が、美しく咲き続けられるでしょう。




国家は、人類愛をより美しくより豊かに守る「家」であるべし

人類は、元々狩猟採集民として生まれました。
1万年の農耕社会から、数百年の産業社会を経て、

地域資源に伴う離合集散を繰り返しながら、幾つかの段階を経て、
やがて国家というものが創りあがって来ました。

記録によると、
19世紀の帝国主義時代に列強諸国によって世界分割が行われるまでは、
世界各地に、国家に所属していない社会や土地が未だ存在していましたが、

20世紀末の現在は、地球上の南極を除くすべての陸地が、
いずれかの国家に所属するように成りました。

改めて、国家とは何か?
そして、国家のあるべき道とは?
国家とは、一地域の最高統治者(統治組織)により、
地球の一部地域を、国境線で区切って所有し、同時に、
その地域に居住する人々に対して統治をする、政治機構・政治組織であります。

対内的には、人々の間の異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持し、
排他的な統治権を有する(権利を独占する)政治団体・政治共同体とも言えます。

又、対外的には、自国の領土と国民を守る前提で、
他国との交流と発展を図る、政治機構・政治組織であります。

国家の形態は、種々の観点から分類されますが、基本的に、
君主国と共和国,専制国家と立憲国家,単一国家と連邦国家、等が有りますが、

どの時代の、どの地域の、どの統治者の下での、どの形態の国家でも
国家は、人間愛・人類愛をより美しくより豊かに、守る「家」であるべしです。




美しい世界リーダーは?
愛に満ち溢れる世界を創るリーダー、
愛に満ち溢れる時代を導いて行くリーダー


地球の線は、地球の色は、
即ち、地球の国境線は、地球の平和と繁盛、戦争と災難は、

その時代の、或いは、その地域の、リーダーによって、千差万別に成ります。
天国も、地獄も、そのリーダーの一手によって、成り立ちます。
美しいりーだーが、美しい世界を創り、
美しいリーダーが、美しい時代を導いて行きます。

美しい世界リーダーは、
この世の中を、争いの無い平和で幸福の大愛の時代へ、導いて行くリーダーです。
この世の中の人々と共に、人間愛に満ち溢れる一つの世界を創って行くリーダーです。




美しい人類社会の未来像:国境無しの、人類愛の世界へ!

地球は一つ、人類も一つです。
人類は、同源・同願・同心であり、
人類は、平和、幸福、美麗、長寿を願います。
人類は、愛の産物で、人類文化は、愛の文化であります。

この真理に基づいて、
美しい世界のリーダー、美しい時代のリーダーは、
地球上の57億の人類を(2020年現在は77億の人類を)、
国境なしの、人間愛・人類愛、大愛の世界へ、美しい未来の世界へ導いて行く事です。





社会に学ぶ!
国境なしの大愛は、美しく偉大なものである!

(九州大学時代の社会体験)




大らかな川勝守先生(九州大学院の指導教授)と、贅沢な研究員たち、

国境無しの大愛と言ったら、先ず浮かぶ方は勿論のこと、
大らかで優しい尊敬する我が恩師、九州大学院の川勝守先生です。

川勝守先生は、東洋史・日本史学者で、日本の仏教学の一人者でもあります。
東京・拝島大師本覚院山主でもあるために、
長年、東京から九州大学まで、通勤をしておられました。

先生は毎週一回、研究室の全員を連れて、外部で交流会を行いました。
福岡市内では、夕食会をしたり、気楽なカラオケ会を行ったり、

福岡を離れては、九州地域の長崎市、佐世保市、等に行って、歴史探訪をしたり、、、
問題は、ほとんどの経費を、先生の自負担でした。
当時は慣れて、当たり前のように思いましたが、
今振り返ると、恩師の川勝先生の大愛を、充分に測り取れます。
先生、本当に心より感謝いたします!

川勝守先生は、優しい親心の、大愛の大らかな恩師でした。




当時の九州大学の留学生は、
全員が授業料免除で、全員が奨学金を受け取れました。


今も鮮明に覚えていますが、私の4年間の九州大学時代に、
初期の一回の入学金28万円以外は、授業料は全免除でした。

これは、当時の、九州大学の全ての留学生への、特別の待遇でした。
そして又、九州大学の全ての留学生は、申請さえすれば、
毎月に10万円ぐらいの、奨学金を受け取る事が出来ました。

九州大学の留学生は、九州大学・国際交流会館に入居することができますが、
ホテル式のワンルーム部屋代金が、なんと、月に5千円でした。

(キッチンだけが、共用部分でした。)
私も当会館に、一年間居住しましたが、
とても安くて便利で、とても助かった覚えが有ります。

日本政府に、九州大学に、心より感謝です!!




福岡市議会・国際交流委員長の鬼塚先生を、日本保証人へ

全ての日本への留学生は、日本社会で信頼される日本人(或いは永住者)を、
日本滞在保証人として、日本入局管理局へ提出する義務が有ります。

私の九州大学時代の日本保証人は、日本福岡市議会議員(公明党)の鬼塚先生でした。
当時、鬼塚先生は、市議会の国際交流委員長を担当しておりました。

私は、何事も鬼塚先生に報告し、又、色んな面でご指導ご応援を頂きました。
何時もの通りに、私は自分を進歩させる社会体験を、一番に大事にしておりましたので、

鬼塚先生に、社会の勉強に成れるアルバイト先を、相談に乗って頂きました。
先生は、福岡・欧州洋行株式会社の片山達也社長に、私を推薦しました。
面接の当日に、採用が決まりましたが、まさかのこの出会いが、
私を、華やかな日本"バブル"終電車に間に合わせるとは、思いませんでした。




25歳、1992年の秋、"華やかな日本バブルの終電車に"乗る!
初の東京出張、そして、初の帝国ホテル泊まり!


福岡・欧州洋行株式会社は、東京・千代田区開発株式会社の子会社で、
世界のブラント商品を日本に直輸入して、日本国内販売をする会社でした。

藤井博子さん、秋元さん、佐藤さん……とても素敵な女子同僚達に恵まれて、
公私共に、とても仲良くして貰いました。
又、社会の見識の面でも、シャネル、ロレックス、ダンヒル、ニナリッチ……、
世界の有名ブランド品の文化と歴史を、詳しく学ぶことに成りました。
又、ボーナスで、会社が預かっている諸商品を数多く頂きました。
(私個人的には、西洋有名ブランド品に関しての、特別の憧れは有りません。)

一番嬉しかった事は、初の東京の出張でした。
それも何と、宿泊先が東京の帝国ホテルだった事でした。

私は中国にいる時から、綺麗なホテル(文化・芸術が濃縮されている場所)の宿泊が、
大好きでしたので、とても嬉しかったのです。
1992年の10月か11月の初頃だったと思いますが、
仕事の内容は、本社の東京の千代田開発株式会社が、
韓国の済州島にあるゴルフ場を買収するプロジェクトの、通訳でした。
仕事の終わりに、お客様達と一緒に、夜の銀座を楽しんたり、
気楽な東京の初観光まで……本当に忘れられない贅沢な初東京出張でした。

25歳の人生、日本での初秋から(1992年の秋から約2年間)、
日本の素敵な大先輩の、鬼塚先生と片山社長のお陰様で、
地方都市福岡でも首都東京でも、日本の華やかさを満喫して頂きました。

改めて、尊敬する鬼塚先生と片山達也社長、そして優しい同僚の皆様に、
心より感謝を申し上げます!




在日本コリアン社会との交流:
韓国駐福岡総領事館、在日韓国民団、在日朝鮮総連、
韓国留学生会、そして韓国からの訪問者まで、


1992年1月4日、24歳の最後の日(翌日が25歳誕生日)に日本へ初上陸し、
すぐに、運命的にもほぼ同じ時期に、
日本にいる其々の分野のコリアン社会と出会いました。
韓国駐福岡総領事館の領事、在日民団系の方、在日総連系の方、
韓国留学生会の方、そして、韓国からの訪問者まで……
本当に、運命的に、バランスよく出会えました。

前の部分で申し上げた事がある、
中韓国交正常化前の韓国訪問を応援してくださった、
韓国駐福岡総領事館の李哲男領事、
在日民団・福岡本部の朴龍徳局長さん(在日二世)、
在日総連中央副議長を歴任した父親をもつ、留米派の企業家、洪社長(在日二世)、
韓国留学生会・九州地域会長の金東鎮さん、
韓国からお嫁に来て、福岡で会社を経営する女子経営者、徐福徳さん、
韓国から出張で、福岡に訪ねて来た(陶芸作品の展示)陶芸作家の申さん……

皆さんは、一人のように、優しく、明るく、
私の人生で、永遠に忘れられない、大事なご縁です。
大事な青春の一ページに、貴重な学びに、心より感謝です!!




九州大学・研究室での、貴重で面白いエピソード!
"金さんと、金さんと、蒋さんの話"


1994年4月に、九州大学院・文学研究科・史学科へ、
入学直後のある日でした。

指導教授の川勝先生のメインの授業が終わったところで、
皆さんは、何時もの通りに、2~3人ずつ交流に盛り上がりました。

私より一学年上の先輩である、韓国からの留学生である金さん(男性の方)が、
同じ"金さん"である私に、"金さんは何処から来ましたか?"と、
私に向かって、交流を図りました。
私は、"中国の北京から来ました。"と、返事をしました。
"金さん"である私が、当たり前のように韓国人だと思っていた金さんは、
驚きながら、"えぇ~??中国から来たのですか??"。

当時の日本は、中国からの留学生も未だ少なく、
私のようなコリアン系の中国人留学生は、もっと珍しい時期でしたので、

私は、金さんの驚きは、充分に理解出来ておりました。
私はニコッと笑いながら、"私は、中国生まれのコリアンです。"と、
自分なりに、彼が解り安いように、返事をしました。
但し、その返事が落ちた瞬間でした。
"金さんがどうして韓国人なのよ??金さんは中国人でしょう??!"
横の席で荷物を整理していた、同じく一学年上の先輩である、
蒋豊先輩(5歳上、中国北京からの留学生)の、突然の、半叫びの、突込みで、
穏やかな会話ムードに入っていた、二人の金さんは、ビックリ!!しました。

私は笑いながら、改めて、優しく、"蒋さん、誤解しないでくださいね。
勿論私は、中国人ですよ。只々、金さんが解り安いように、返事をしただけです。"と、
説明を加えました

とてもせっかちの蒋先輩は、思わず人の会話を横で聞いて、
勝手に突っ込んだ事が、少し恥ずかしく成ったか、その場をすぐ去りました。

蒋豊先輩と言えば、北京師範大学卒の秀才で、硬直でせっかちの性格で、
我々の研究室で、唯一に、川勝守先生に、真正面で反論する先輩でした。

正義感の強い蒋先輩にとっては、一瞬、私が、
"中国を裏切る、裏切り者"に感じたでしょう。(笑)
先輩のその真意は、同じく正義感強い私だからこそ、充分に理解は出来ます。

蒋先輩、ありがとう!!
そう、我々は、中国人です。
そして、我々は、世界人です。地球人です。

又、蒋先輩、私が、我々が、何人である事が、何がそんなに大事ですか??
何人である事よりも、先ずは優しい人である事、愛が大愛が有る人である事が、
一番大事だと思いますが……
今頃の蒋先輩も、後輩の私のこの観点には、賛成すると信じています。

中国人が美しくであれば、世界が美しく成ります。
世界一の人口、15億の人口を持つ超大国である自覚を持って、
共に、一人の中国人として、一人に世界人として、
狭隘の愛国よりも、大らかな中国人らしい、広大な人類愛・大愛で、
地球上の77億の人々を、優しく包みましょうね!!

(5000年歴史を持つ、中国の伝統的な包容・抱擁精神を、引き続き発揮しましょう。)





29歳の春!
九大大学院卒業!
住友生命・東京へ就職!
米国への初上陸!そして、米国留学を夢見る!



29歳の春、1996年3月、九州大学院を卒業!

あっという間に、二年間の研究生活が終わり、
次の、新たな進路を決める時期が来ました。

川勝先生は、引き続きの博士課程も可能だと仰いましたが、
私はやはり、東京での一定期間の社会生活を、選択しました。
その後の目標は、米国への留学、そして起業でした。

前で申し上げた"華やかな初の東京出張"から引き続き、
大学院時代の2年間も、チャンスが有れば、東京に飛びました。

東京での就職先を選びました。
就職先を選ぶ優先順位は、"大企業で、人と接する機会が多い職"でした。

東京駅真ん前の、住友生命・東京中央営業本部を選びました。
嬉しくも、一回の面接で、採用が決まりました。

来る新年度の4月1日からの、日本での初出勤が決まったのです。
再び福岡に戻り、1996年3月28日に行われた、
九州大学院の卒業式に参加しました。

第二の故郷、福岡を後にして、
私の人生観・世界観を確立させてくれた、母校の九州大学を後にして、
恩師の川勝先生とお別れを告げて、惜しむ暇も無しに、何時かの恩返しを誓いながら、
次なる新たな目標に向かって、飛び立ちました!




日本での初就職!住友生命・東京中央営業本部!
名前は、別名の"新井紅実"で。


1996年4月1日、東京駅真ん前の住友生命ビルで(東京・八重洲口)、
日本での、初の出勤を果たしました。

出勤と言っても、最初の一年間は、ほぼ勉強と訓練でした。
特に、最初に三ヶ月間は、毎日のように、一日中8時間の勉強でした。
あらゆる金融知識と各分野の保険知識を教えて、
何度に渡り、金融と保険の受験を受けました。
不合格者は採用不能に成る、と言われましたが、
何とか84,5点の成績で、無事に引き続きの採用と成りました。
(日本での唯一の就職と成りましたので、今も記念として所持しております。)

三ヶ月後の7月1日に、正式に、
"住友生命保険相互会社・東京中央営業本部・丸の内支部・新井紅実"、

という名刺を、大事に受け取りました。
一ヶ月後の8月の末には、この名刺に"主任"という肩書が加えました。
私金紅実の別名である"新井紅実"の由来を申しますと:
当時の東京中央営業本部の社員、約100人(?)の中で、
外国人は唯一、私一人でしたので、
入社面接官の池田玲子支部長が、"皆さんと馴染み易いように"と、
優しい気持ちで、付けてくださった別名でした。

又ここで、住友生命の中でも特別のご縁の池田玲子支部長の事を申しますと、
元々、ミス北九州出身のとても美人の方で(当時は、40代半ば)

気さくで明るく、大らかな方で、私の入社面接官でもあります。
(私が住友生命を離れて、24年目の今も、15歳の年齢差も感じずに、
仲良し姉妹のように、付き合っております。)

池田玲子支部長の大胆の人材採用戦略のお陰様で、
私は、住友生命に在職する僅かの1年3ヶ月間という短い期間で、

幅広い社会知識の学び、社会マーナ―の学び、楽しく充実な社会体験を、
数多く築き上げました。
訛っている日本語を使う私に、大事な日本赤十字社本部を担当させたり、
又、住友生命・幹部候補育成プログラムに、私を送ったり、、、
最後に、私が起業の為に退社届を出したのにも関わらず、
"起業が上手く行かなかったら、戻って来てね。"と、心配しながら、
私の社籍を、3カ月間も保留してくださったのです。

私の人生で、住友生命での1年3ヶ月間は、
一凛の美しい花、華やかな花として、残っております。

正に、"愛の商品"である生命保険を扱う、一流企業の住友生命、
私の恩返しの日は、遠くないでしょう。
そして、花より美しい住友生命時代の貴重なご縁、
本部長、池田玲子支部長、柴田綾子所長、小山洋子さん、亀田さん、、、
明るく、楽しく、優しい、住友生命の日々、昨日の如く鮮明に浮かびます。
本当にありがとうございます!
そのうちに又、必ず再会しましょうね!!




29歳の春、米国大陸へ初上陸を!
3年後の、米国留学を心に!


住友生命にて初出勤を果たした、同じく29歳の春、4月、
その4月の末に、又の、米国大陸へ初上陸を果たしました。

一週間のゴールデンウイーク休みを利用して、
米国の大陸の大らかな西海岸都市と、美しいハワイ島へ行きました。

先ずは、西海岸のロサンゼルスに向かって飛びました。
太平洋を越え、初のアメリカ新大陸に上陸!

想像するだけで、我が人生歴史の里程標になる莫大の感動でした。
但し、14~15時間の飛行機の旅を経て、辿り着いたロサンゼルスの空港は、
北京空港のところか、中国の地方都市の空港と全く同じ感じで、
全体的な照明が少し暗く、空港の前には、ごみまで沢山落ちていました。
あぁ、人間生きているところは、どこにも同じなんだ、と思う瞬間でした。
まるで、故郷に戻った気分でした。

先ずは、ロスにある南カルフォルニア大学を訪問しました。
引き続き、世界で有名なディズニーランド、映画村??

チャイナタウンと、コリアタウンを、探訪しました
ロサンゼルス周辺の西海岸の都市を転々と回りました。
青い空と綺麗な空気、ゆったりした整備されている道路と周りの風景、、、
自然で、伸び伸び活きているような気がしました。

心で、"こんなにゆったりした環境(地球の地域)が有るのに、
何故、狭い日本と韓国に、集まって、固まって、
又、小さな領土で戦いながら、気苦しく住んでいるんだろう??
何故、日本と韓国から、其々1000万人ずつ、アメリカかカナダに、
移駐して住まないんだろう??"と、とても疑問が湧きました。

ロサンゼルスを満喫して、又の太平洋を飛んで、美しいハワイへ飛びました。
聞名天下の、休養と観光の天国で知られている、美しいハワイへ飛びました。

遂に、念願の、ハワイ空港に着きました。
相変わらずの素朴な空港を抜け出して、車で走り出した瞬間から、
やっと"世界のハワイ"の実感が、沸き始めました。
高々空広の青いそらと、限りなく伸びている遠く青い海平線、
あらゆる陸地には、鮮やかな緑の芝生にシュッシュッと立っている綺麗なヤシの木、、、
明るくゆったりしている、大らかで華麗はホテル、、、
ホテル前に海岸には、原住民たちの優雅な音楽とハワイアン踊り、、、
海の豪快の船には、気さくで大らかな船長さんが、愉快に話しかけてくれる、、、
又のハワイアン民俗村(?)に行ったら、情熱でパワフルハワイアンの火踊りが、
観光客を圧倒して、無我夢中の絶叫を引き出してくれました。

初ハワイは正に、愉快、爽快、リラックス、伸び伸び、、、そのものでした。
空気が綺麗で、風景が美しくて、人間が大らかで、食べ物が豪快で美味しい!!でした。
自然は、人工(人為)に勝る!!自然は、美しく偉大なるもの!!を実感しました。
魔法のように、この世の人間が持つ、
全ての、疲労と、煩悩と、雑念、ほこりを、、、
全部!一気に!綺麗に!飛ばしてくれました!

美しい島・ハワイの虜に成りました。
唯一足らなかったのは、言葉でした。英語でした。
心静かに、一日も早くの米国に来て、学ぶ事を、誓いました。
三年後には、アメリカの何処かにいるでしょう!





20代の夢見る東洋の花、
美しい時代に感謝!
国境無しの大愛に感謝!
そして、私の一生、大愛の為に!!


20代を振り返ると、最愛の母をなくした悲しみは有りましたが、
その代わりに、最愛の母の分まで、美しい時代を、美しい世界を、
美しく偉大なる人間愛・国境無しの人類愛を、満喫いたしました

20歳の春に出発し、
中国地方の吉林省の輝南から、

首都の北京を自由自在に、
そして、南方都市の桂林、広州、深圳を、
海岸都市の大連と上海、北方地方の西安と内モンゴルを、、、 、、、
正に、中国の大地を、自由自在に、飛び回りました。

遂に、24歳の新年に、中国の北京から出発し、
日本の福岡へ飛び、韓国の釜山・ソウルへ飛び、

又、日本の大阪・東京・九州各地・静岡、、、等へ飛び、
又遂に、念願の米国新大陸の上陸し、
そして、世界のハワイまで、満喫しました。

偉大なる我が母国・中国、感謝の第二の母国・日本、
そして、恋しい親の母国・韓国、憧れの新大陸・米国、

国境無しの人間愛・人類愛・大愛は、私を、
より美しくより豊かな東洋の花として咲かせてくれました。
国境無しの人間愛・人類愛・大愛は、本当に美しく、偉大なるものでした。

大愛に感謝です。地球に感謝です。
これからの私の人生は、大愛の為に、感謝の為に、恩返しの為に、存在するものです。
私の一生、美しい地球・大愛の為に!!





20代の大移動図!歴史に学ぶ青春の足跡!


ロゴマークがある処が、我が20代の学びの足跡です。
中国、日本、韓国から、アメリカの西海岸まで!全てに感謝です!!




次回は、「太陽の女人――大愛の為に。第四章 : 挑戦 ( 30代~)」を、
お楽しみください。
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