美しいロマンと夢 ( 5 ) : 太陽の女人--大愛の為に。第二章 自覚 ( 10 代~)

ご報告の自伝として、美しい世界のリーダー様に、MerryWorldのロマンと夢と使命と決心決意を、10章の系列に分けて、丁寧に、そして真摯にご報告いたしたく存じます




目録


はじめに

序詩 : (一) 太陽の女人
序詩 : (二) 美しい人生
序言 : 私のロマン、私の夢、大愛の為に。


幸運の文学少女

第一章 : 運命 (誕生~)
第二章 : 自覚 (10代~)


夢見る東洋の花

第三章 : 覚醒 (20代~)
第四章 : 挑戦 (30代~)


ロマンの太陽の女人

第五章 : 覚悟 (40代~)
第六章 : 美しい"人間革命" (只今~)


美しい世界リーダーへ

第七章 : 世界リーダーの基準
第八章 : 共に、一つの美しい世界――大愛の世界"MerryWorld美麗世界"を!


共に、人生を美寿に(みことに)!

第九章 : 永遠なる情熱の青春劇場!
第九章 : (美しき150歳まで!)
第十章 : 後世代に、美しい人生のモデルを。






幸運の文学少女

第二章 : 自覚 (10代~)



11 歳、中国の改革開放が始まる

私が 9 歳の 1976 年の秋、中国建国の父である毛沢東主席の死去により、
10 年間に及ぶ中国文化大革命は終止されました。
11 歳の 1978 年末、中国は、鄧小平の指導体制の下で全面的な改革開放を始めました。
経済改革と同時に、文化・教育も改革され、全国統一受験制度も復活されました。
1979 年 1 月 1 日、鄧小平と米国のカーター大統領の交渉により、
中米の国交が正常化になり、中米友好の新時代が始まりました
1972 年に正常化された中日関係も、平和ムードに乗り、
日中友好の全盛期を迎えました。

私は正に、この改革開放の、初列車に乗った幸運の一人です。


忘れられない 12 歳、

12 歳の春、最愛の父と急死別

12 歳の初春、順風満帆の小学時代が実りに向かう頃、
途轍もない不幸が、我が家に訪れて来ました。
朝、元気な姿で仕事に出かけた父が、戻らぬ人と成ってしまったのです。
青天霹靂の出来事でした。脳内出血で、発病当日に亡くなりました。
僅か 55 歳でした。

余りにも突然の出来事で、私は実感が沸かなく、
母も衝撃で倒れて、入院生活余儀なくされました。
最愛の父を亡くし、最愛の母までいない 12 歳の春は、
本当に、寂しく、悲しく、辛い春でした。

母は退院後、父の空白を埋めようと必死でしたが、
一家之柱を失った家は、悲しみに包まれ、
活発でした私も、無口の思量深い少女と変わりました。
有難いことに、地方政府は父の生前の功績を認め、
私が成人に成るまで、父の功労金を支払ってくれました。




12 歳の秋、初めて親元を離れ、中学校に入学

中国の教育改革開放の政策に従い、
中国の地方政府は、コリアン系が相当数住んでいる中国東北三省に、
授業料免除の、朝鮮族中学校を設立しました。
朝鮮族中学校のテキストは、中国の一般の中学校と基本同じく、
一般中学校の語文科目を、朝鮮語と漢語二つに分けただけの違いでした。
コリアン系の中学生には、勿論、
一般の中学校に通うか、朝鮮族中学校に通うか、自由な選択肢が有りました。
(ちなみに、我が家の6人姉妹の中で、私だけが朝鮮族中学校に通いました。)

母は、私を 40 キロ離れている、メインの統合中学校、
輝南朝鮮族中学校に通わせる事に決めました。
(朝鮮中学校は、大都市か、一つの県に、一つ設置)
それで、12 歳の秋、私は初めて親元を離れて、
輝南県朝鮮族中学校に入学しました。
初等中学校 3 年、高等中学校 3 年の、合計 6 年制の統合中学校でした。
当時の国家教育委員会の決まりにより、小学校の 6 学年を、中学校 1 学年と見直したため、
私は、中学校 1 年生無しの、中学校 2 年生として入学しました。




12 歳の秋、団体・組織生活の始まり

輝南朝鮮族中学校に通うには、寄宿舎生活が必需でした。
中学校の寄宿舎は、まるで大家族のように、
各部屋には、約 20 人位の学生が一緒に住んでいました。
寄宿舎生たちの生活は、統一システムの管理の下での、統一行動が基本で、
勉強も、食事も、就寝も、日曜日以外は、統一的な組織生活でした。
始めは戸惑いも有ったのですが、すぐに慣れて、とても楽しく成りました。

学校生活の面でも、一早く、共青団員に推薦加入され (中国共産党下の青年組織)、
クラスの幹部は勿論、全校の"三好学生"にも選ばれたり
(徳育、知育、体育、三方面の優秀学生)、
確実に、社会人と自立に向かって、一歩踏み出したような気がしました。
一言で、順風満帆の中学校生活、組織・団体生活でした。
(このような組織・団体生活は、大卒の 23 歳まで続きました。)




自立の揺籃――輝南朝鮮族中学校に感謝

忘れられない 12 歳、そして 2 年間の中学校生活、
我が自立の揺籃――輝南朝鮮族中学校と
我が自立の親――中学校の恩師の方々に、
育ててくださった御恩に、心より深く感謝を申し上げます。

歴史と法律の面白さを教えてくださった、大らかな金成万教頭先生、
寄宿舎監督兼体育先生の、厳しく優しい金光在先生、
親のように優しい中 2、中 3 担任先生の、
金昌憲朝鮮語文先生と柳詩文漢語文先生、
私を特別に可愛がってくださった数学の文英淑先生とユーモアたっぷり黄先生、
日本語勉強の大事な基礎を造ってくださった
紳士な金海鎮先生と、ユーモアたっぷりの金点七先生、
笑顔が素敵な朝鮮語文先生と物理の先生 、、、 、、、
教えてくださった御恩、忘れはしません。


勉学と生活を共にした、中学校時代の純友たち、
姉妹のように、寄宿舎で一緒に生活し、共に成長した幼馴染、
本当に懐かしく、会いたいですね。
特に、中 2 から一番の親友、金卒順さんは、
二人は、中 2 から 2 年間、何をやっても一緒でした。
勉強も、食事も、遊びも、悪戯までも、一緒でした。
成績も自然と、1 位、2 位に並んで、
後の、師範学校も一緒に入学し、卒業後も一緒に教師に成りまして、
その後の、大学の受験と大学の入学までも一緒でした。
後に、私の仲介により、私の義理の姉にまでなっていますが、
私が、大学 1 年生の時に、線路を変えて飛び立ったが故に、
別の道を歩むように成りました、

純友の金卒順さんは、私の思春期と青春時代の活きている証人でもあります。
真面目で頑張り屋の彼女は、相変わらず、母校の中学校にて教師を務めております。
語文の教師と教頭を兼任して頑張っております。
純友よ、ありがとう!いつまでも元気で!!





14 歳、幸運にも、学びの新天地へ!

延辺第一師範学校(四年制、今の延辺大学師範学院)へ合格

1979年の夏、初等中学校(中学校三年生)を卒業する私たちも、
時代にのり、全国統一受験を受けました。
中三卒生には、未だ大学の受験資格が無く、中三卒の全国統一受験を受けて、
その中から成績が優秀な学生だけが、専門学校に入学出来ました。
幸運にも、私と金卒順、もう一人の男子学生、共3人が、
輝南県朝鮮中学校の中で1、2、3位の成績で、
小学校教師養成の専門学校、延辺第一師範学校に合格しました。

家族は勿論、親族までも、慶事として喜びました。
80年代初の当時は、未だ、大学と専門学校が少なく、
全国的に統一受験合格率が、僅かの4%程度のため、大事なチャンスでした。
又、卒業後にも、引き続き、大学に進学するチャンスがありますので、
私は迷わず、勉学の新天地――師範学校の入学を選びました。
その上に、延辺朝鮮族自治州と言う、中国、北朝鮮、ソ連(ロシア)、
3国の国境線地域への神秘感も有りました。



中朝露3国境線地域である、延辺に関して、簡単に説明しますと

延辺地区とは、中国吉林省の一部地域で、吉林省の東北部に位置し、
中国と北朝鮮、中国とロシア、3国の国境線がある地帯でもあります。
延辺総人口227万人の中で、コリアン系の中国人が約35%(約80万)占めるため、
中国政府から、朝鮮族自治州として、認定された地区です。

延辺朝鮮族自治州の面積は43,474㎢で、吉林省の約4分の1の面積を占めています。
(延辺地区の面積は、日本の四国の約2,2倍、東京都の約20倍の面積です。)



(参考1)中国地図の中での吉林省の位置と、吉林省の中での延辺州の位置:


中国地図の中で、黄色い部分と赤い部分を合わせて、吉林省です。
赤い部分だけが、延辺朝鮮族自治州です。



(参考2)延辺地区の東南端にある、中国・防川国家風景名勝区の位置
(中、朝、露、3か国の国境線地帯)


赤い四角 () の処が防川国家風景名勝区
防川は、延辺朝鮮族自治州の東南端に位置し、州府の延吉市から車で約2~3時間の距離です。
母校の延辺大学師範学院(4年間勉強して卒業)と延辺大学(一学期で自退学)は、
延吉市に所在しています。



(参考3)防川国家風景名勝区(中朝露3か国の国境線)地帯の拡大図


中国・防川を挟んで、左側の川の半分が北朝鮮、右側がロシアです。




14歳、思春期の"青い挫折"!

到着した師範学校は、広々の自然野原でした!

14歳の秋、希望に膨れて、遥々12時間の列車に乗って、
延辺朝鮮族自治州に、州府の延吉市の列車駅に到着しました。
(注意:延辺州は吉林省の一部で、吉林省の省府は長春市であります。)
今は車で4~5時間の距離ですが、当時は、
輝南から延吉市まで行くのに、列車で12時間も掛かりました。

学校から一台の古い解放車が迎えに来ていました。
学生達は、解放車後部の露天トラックに、荷物と一緒に乗りました。
走っている古いトラックの上、体と顔に強く当たって来る風の感触は、
未だに忘れません。
(バスではなく、露天のトラックということがショックでした。
私は子供の時から、戦争英雄の叔父が地元運輸会社の総支配人を勤めていましたので、
それなりに車には慣れていました。勿論、これも政府に感謝ですが。)

車が走って、市内を通りぬけて、約20分くらい、辿り着いたところ、
広々の自然野原が目の前に現れました。
野原の真ん中に、一棟のビルがポツンと立っておりました。
師範学校の校舎兼寄宿舎のビル(5階建て)です。
周囲は寂しく、遠く離れた処には、農業地と住宅が広がっていました。
学校から後ろの方(約300m離れた処)には、延辺刑務所が有りました。

新設の師範学校で、学生が少ないため、校舎兼宿舎ビルで間に合いますし、
又、ビルが新築でしたので中が綺麗だったのは、とても助かりましたが、
問題は、そのデコボコの、自然野原状態の運動場でした。




日々の運動場造り――"過酷な労働"

入学と同時に、広々の運動場造りが始まりました。手造りです。
午前中は勉強で、午後には毎日のように運動場を造りました。
籠(かご)で重い砂の土を運んだり、スコップでデコボコの処を平地にしたり、、、
体力労働とは一切縁が無い14歳の文学少女は、本当にまいりました。
6人姉妹の末っ子の故に、肉体労働のどころか、家事もした事が有りませんでした。
夜になると、全身が痛く、両手には水膨れが出来て、ヒリヒリしました。

その時、運動場の整備は、約1年間続いたような気がします。
別棟の寄宿舎ビルは、2年くらいで完成され、三年生の新学期に入居できました。
建物自体は、建築会社が建てますが、とりあえず入学当初は、
整理、整備、等の労働がとても多かったのです。



学食が合わない(周囲に売店も無い)、延辺方言がきつい

当時延辺地方の主食は雑穀がメインで、
学食のご飯にも自然と、トウモロコシとか粟が沢山混ざっていました。
もっと辛いのは、毎食に出てくる白菜キムチ代りのキャベツの漬物でした。
(平日は基本、料理一品かスープ一品と、漬物が一品出ました。)
子供の時には、キャベツ、香菜、等、特有の味と香りがする一部の野菜は、
食卓の遠い所に置くだけで、自然と気分が悪くなっていました。
学校の近辺には売店も無く、お腹が空いても、ひたすら我慢でした。

その上に、延辺地方の方言は、故郷の吉林一帯とは全然違って、
別の国の言葉のように、非常に聞き取り辛く、きつく感じました。
最初のうちは、延辺地方のクラスメイト達と友人のところか、
只の交流さえも、かなり距離感が有りました。
(慣れるのに、1~2年位の時間が掛かったような気がします。
今は、延辺の方言を聞くと、親切さを感じ、とても懐かしいですが。)




幹部もさせてくれない、学校が全然面白くない!!

入学当時から、クラスの幹部は、担任先生が指名しました。
小学校と中学校の8年間、最優秀学生として、幹部は勿論、
先生と学生たちの信頼と寵愛を一身に受けて来た私が、
なんと、師範学校に来て、何の幹部にも指名されなかったのです。
別のクラスになった金卒順も(私と同じ中学校から入学)
クラス幹部に指名されなかったのです。

当時は、未だ改革開放の初期で、社会人からの入学生が多く、
特に、我が師範学校は新設で、我々が第一期生の故に、
半分以上が社会人からの入学で、同級生なのに年齢が、
中卒の我々と比べて、4~8歳上が普通で(20歳前後)、
別に成人クラスには、30~40歳に見える学生もいました。
偶然にもまた、私の生年月日が全学年でも一番の最後で、
第一期生(約250人)の、真の末っ子でした。

立派な大人が沢山いるクラスの中で、14歳の子供の私を、
幹部に指名しなかったのは仕方ない事ですが、
納得しながらも、学校生活が全然面白く無かったのです。
今まで、家でも学校でも、常に一番にされて当たり前だった私には、
到底、慣れない状況でした。




遂に、校長先生に転学を強請る (ねだる)!

何一つ面白くない!
学校が全然面白くない!
この学校に来たのが、大きな間違いだ!
帰ろう!中学校に戻ろう!!
我慢が限界に来た、苦痛の14歳、彷徨う一年生は、結論を出しました。

先ずは、担任の李春男先生に、転学を申し込みました。
聞いてくれるはずが無く、何度も何度も同じ言葉で、
"これから面白くなるからもう少し待って。"と、慰めてくれるばかりでした。
固まった気持ちは、変わりませんでした。

遂に、校長先生の崔太浩先生に訪ねて行って、転学書を強請りました。
担任先生と同じく、慰めて、色々説得してくださいました。
最後に、どの様に説得されたかは全然覚えていませんが、
当時の、仏のような校長先生の優しい笑顔は、未だに忘れません。
私の完固な転学強請りは、止まりました。

我がまま14歳"文学少女"の"青い挫折"!
今思うと笑いが止まりませんが、
当時の真剣さ、辛さは、普通ではなかったのです。
本気で、師範学校を辞めて、中学校に戻ろうとしていました。
14歳人生、初めての苦い忍耐で、大事な必需の授業だったと思います。
今も、優しく導いてくださった担任先生と校長に、心より感謝しております。




思春期の "青いロマン、青春謳歌!"


クラスの中で、沢山の親友が出来ました。

入学当時から優しかった、同じ年の林善子は、
街に出かける度に、美味しいお餅を買って来て、
暖かい内に、そっと、私の布団の中に入れて置いてくれました。
2歳年上の、優しく辛抱強い性質の、尹德善は、
私の大きな洗濯物――布団カバー等を、率先して洗ってくれました。

口数が少ない私が、冷たく感じるとは言いながらも、
義理固い人間性のお陰か、皆が私を大事にしてくれました。
私も手元に常に余裕が有りましたので(姉が多い末っ子の故に)、
買ってきた物を、惜しまずに、皆に分けたりしていました。




学校生活で、一番救いだったのは、楽器でした。

我が師範学校は、小学校の教師を育成する専門学校のために、
音楽と楽器のオルガンが、必需科目でした。
一年生の二学期に、学校に40~50台のオルガン(簡易の)と、
何台のアコーディオンと、ピアノ等が入荷されました。
学校の規模は小さいものの、楽器は多い方でした。

私は楽器が好きで、毎日のように楽器室に通いました。
ピアノは使用制限がありますので、毎日オルガンを練習しました。
結果、音楽とオルガンが、クラスで得意な方になりました。
一番運がよかったのは、担任の李春男先生に、バイオリンを勧められたことでした。
(物理の先生なのに、色んな楽器も出来る、多才多能の先生でした。)
"紅実は音感が良いから、バイオリンを学びなさい。"と、
私にバイオリンを、勧めてくださいました。

お陰様で、バイオリンに、とことんはまりました。
授業が終わると、毎日のようにバイオリンを練習しました。
新しい音楽専門の先生、李光浩先生が赴任して来て、
遂に、師範学校にも、初の楽団が設立されました。

当たり前のように、初の学校楽団の一員と成りました。
楽団は、バイオリン5人とチェロ1人、そして、
トランペット、ホルン、サクソフォン、フルート、
オルガン、アコーディオン、等が1人ずつ、
12人の団員からスタートを切りました。




我が青春のシンボル――バイオリンを片手に

片手にバイオリンを持って、演奏する自分の姿、
片手でバイオリンを持って、歩く自分の姿は、
私の青春のシンボルとして、心に深く美しく刻まれております
プロのバイオリニストには全然敵いませんが、
我がデリケートな思春期の感性を、より豊かに、より美しく、
導いてくれたことは、違いありません。

充実で楽しい楽団生活は、卒業まで約3年間続きましたが、
音楽と楽器を学んだこと、特に、バイオリンと出会った事は、
師範学校時代全体の中で、一番の幸いの事でした。
音楽と楽器の素敵な世界へ導いてくださった恩師、
李春男先生と李光浩先生に、改めて感謝を申し上げます。




カナダ有識人のピアノ寄付、初の日本舞踊と日本ドラマ

遥々遠いカナダから、有識人が学校に、ピアノを寄付しました。
2年生15歳の冬、全校の学生たちが、真っ白の雪道路に、
両側に長い二列に並んで、カナダの有識人を歓迎しました。
背のとても高い、笑顔の素敵な白人の先生でしだが、
わざわざと遥々のカナダから中国の地方までいらした
その大愛の心には、心より敬意と感謝を申し上げました。

また、師範学校で出会った初の日本舞踊が印象的でした。
舞踊科目も必需科目で、師範学校4年間に渡って学び、
学校か社会にイベントが有る度に、皆で踊りました。
色んな国の踊りを学びましたが、その中でも印象深かったのは、
2年生の頃に学んだ、初の日本舞踊でした。
日本の舞踊は、身体の動きが比較的に小さく静かな舞踊だと思いましたが、
日本に来て見たら、情熱な踊りも有りまして、意外でした。

子供の時から、ソ連、朝鮮、カンボジア……の
社会主義国家の映画は、沢山見て慣れていましたが、
日本の現代青春ドラマは、初めでした。
「バレーボールの女将」という日本ドラマを、
皆で学校のテレビの前に集まった、毎週欠かさずに見ました。
又、高倉健さんが演じた「逮捕」の映画を見に、映画館まで足を運びました。
ドラマの女性の髪型と服装を真似したり……
日本の文化にも、とても親しみを感じました。




恋愛小説にたっぷり浸かる!実際の恋愛はとりあえず断る

元々小説好きな私で、当時はちょうど、台湾の現代女流作家、
琼瑶の青春愛情小説が大流行している時期でした。
全クラスの女子学生が、次々と借りて、夜更かししながら読みました。
その繊細な感情表現に、主人公と一緒になって、泣いたり笑ったり、大変でした。
他にも、女人の一生、モンテクリスト伯爵夫人、春香伝、、、等、
外国の愛情小説だけを借りて読み続けました。
とりあえず、感性豊かな愛情生活に、間接的に浸かっておりました。

但し、師範学校時代まで、直接の恋愛には、とても消極的でした。
心の底で男子学生自体を嫌っているわけではないですが、
相変わらず男子の学生が苦手で、追いかける男子学生が何人かいるものの、
とりあえず、すぐに固く、断ってしまいます。
姉妹しかいない家庭で成長したので、同性とはすぐ仲良く成るのに、
男子学生とは、師範学校を卒業するまで、顔を真っすぐ見ながら、
堂々と喋った事が無かったような気がします。
本意ではなく、学生時代全体に渡って、"冷たい女の子"として通っていました。




"お洒落" し過ぎて、罰金5元

私のお洒落好きは、生まれつきかも知りませんが、
中学校の時もお洒落の先頭に立って、校長先生に優しく指摘されたことが有ります
(流行っているラッパズボンの、ラッパ部分が基準より広すぎる、という事で)。
師範学校時代も相変わらず、お洒落の先頭に立ちました。
流行りの服を率先して買ったり、また買った服を気に入るまで手造りで直したり。

三年生頃だったと思いますが、社会ではハイヒールが流行りました。
私はまた、率先してハイヒールを買いました。
お洒落が好きな女の子何人も、勧められて一緒に買いました。
当時は未だ、"お洒落は、奢侈だ!"と言われる時代でしたので、
学校は、当たり前のように"ハイヒール禁止令"を出しました。
但し、我々は我慢が出来ずに、こっそり穿きました。
授業の時は机の下に隠して、街に出かける時には、一気に持ち出して穿きました。
ある日、運が悪く、街で学校の先生とバッタリぶつかり、
結局、皆、学校のルールに従って、5元ずつ、罰金をされました。

今思うと、笑いが止まりませんが、
どうして、そこまでしてハイヒールが穿きたかったのが不思議ですし、
また、当時は、ハイヒール一足が5元で、統一学食費が月に12.5元の時代でしたので、
5元の罰金は、皆にとって、かなりの大金でした。
私は贅沢の末っ子の故に、手元に余裕が有りましたが、
お金が厳しい子もいましたので、当月は節約で大変だったと思います。




デリケートな思春期の"カリスマ"

デリケートな思春期の"カリスマ"は、師範学校の時代は、
勉強よりも、寄宿舎生活の面で、存分発揮されました。
ベットメイクと布団畳が、常に軍人のように真四角で、
常に綺麗に整理されていて、有名でした。
衛生の面でも、潔癖症に近い程、身勝手に刻薄でした。
(今も、その個性が、かなり引き続いでおりますが。)

一つ、師範学校時代の面白いエピソードがあります。
当時の寄宿舎は二段ベッドで、私は常に下段のベッドでした。
3年生と4年生の満2年間を、私の真上の上段のベッドだった、親友の金貞玉が、
卒業後の約10年後に再会した時に、私に訴えました。
"あの時に(師範学校時代)、私が上のベッドで少しでも動くと、
すぐに、下から、貴方がパッパッとベッドを掃くので、
私は常に、上のベッドで、とても心細かったよ(笑)。
幸い、後に、貴方が天井(上段ベットの下の面)に、白い紙を貼ったので、
その後から、やっと気楽になったよ。(笑)"と。
ちなみに、彼女は社会人からの入学生で、6歳年上でした。

改めて、デリケートな思春期の、身勝手で一途な"カリスマ"で、
人に迷惑を掛けたことを反省しながら、金貞玉と思いっきり笑いました。




18歳の夏、遂に卒業旅行!
北京、天津、大連へ!!人生初の"10日間の壮大旅行"!


1985年の夏、いよいよ4年間の師範生活も実りに向かい、
卒業が近づいて来ました。
天才の担任先生が、またの奇抜な発想を言い出しました。
我がクラスだけの、壮大な卒業旅行の企画でした。
36時間の列車に乗って、北京へ!
北京から、天津へ!そして、天津から船を乗って、大連へ!
また、大連半島の最南端の都市、順義市まで行って!
最後に、大連から20時間くらいの列車を乗って、
延辺に戻って来る!!との事でした。

当時の中国は、一般の旅行さえも稀な時代でしたので、
10日間の壮大の旅行企画は、想像を超える企画でした。
故郷が、中国と朝鮮とソ連(今のロシア)3国の国境線地域である、
先生ならではの発想だと思いますが、我々はとても興奮しました。
旅行費用は、学生の自己負担でした。
当時の社会人給料(例え、中学校教師の給料)の3~4カ月分に当たる大金額でしたが、
大部分のクラスメイトは、積極的に参加を表しました。
勿論、私もその中の一人でした。

その熱い青春情熱の旅行を、一言で纏める事は、到底無理ですので、
面白いポイントだけ申し上げますと:
又の私の"青春お洒落"の一件と、永遠に残る"純友たちとの熱い思い出話"です。
遂に卒業だし、大人の象徴である"お洒落のパーマ"が欠かせないものでした。
私は友人何人かと街に出て行って、大胆に人生初の、ウェーブパーマをかけました。
大失敗の感じでしたが、また、それぐらいでめげる私ではありませんでした。

18歳の情熱の夏、忘れられない純友たちと、熱い列車の中で、爽やかな船で、
思いっきり、歌ったり、笑ったり、食べたり、遊んだり 、、、 、、、
北京の故宮、煕和園, 北海、万里の長城、十三陵、、、
天津と大連の港、大連半島最南端の順義市へまで、、、
青春の青い足跡を残しました!!
旅行の疲れは言葉で表現できない程でしたが、皆の顔も真っ黒に日焼けされましたが、
皆の笑いは絶えませんでした。。。

青春よ、情熱よ、純友よ、純情よ、ありがとう!!




母校よ、純情よ、ありがとう!!


とうとうの、卒業式と、記念写真撮り、でした。

卒業の約一カ月前から、皆が、泣き始めました。
担任先生も泣いて、私たちも、泣き始めました。
担任先生は、毎日のように我々の寄宿舎通って、我々の顔を見ながら、
"どの様にお前らと別れるか、想像がつかない!!"と、泣き、泣き、
我々も先生を見ながら、そしてお互いの顔を見つめ合うと、涙が止まらなく、
皆が、とても寂しい雰囲気に浸かれました。

それもそうで、幼い14歳で出会い満18歳まで(私の場合は)、
先生も、クラスメイトも、満4年間を、ずっと一緒でしたので、
真の家族、真の兄弟姉妹よりも、近く親しい存在でした。
戸惑ったり、悩んだり、喜んだり、、、一緒に、泣いたり、笑ったり、、、
本当に、いつの間か、その純情が、とても深く、とても厚く成っておりました。

別れが間近となると、4年間使ったベッドを、手で撫でながら、泣きました。
ありがとう、ベッドよ!ありがとう、二度と戻れない我が寝室よ!
お前らを残して、どうやって離れて行けるのだろう!!
特に泣いたのは、中学から直接入学した、年齢層が幼いクラスメイト達でした。
(恥ずかしいですが、今も、涙を流しながら、この思い出を書いております。)

とうとう本当の、お別れの当日!
年上のクラスメイト達は、一日前に皆出発していなくなり、
18歳、19歳くらいの、中卒入学の我々だけが、最後まで残りました。
出発の最後の2組でした。
延辺地元行きのバスへの一組、吉林方面の列車への一組、
延辺地元の黄峰洙と姜明锡(二人とも、長い間一緒の楽団員)、
延辺以外の吉林地方の私と親友の林善子が、4人が運動場に立ちました。
お互いに、別れの挨拶をしながら、泣き始めました。
"お元気でね!!必ずまた会おうね!!"ばかり、繰り返しました。

泣き、泣き、お互いに手を離して、少し歩き出したものの、
黄峰洙が突然、こちらに向かって、改めて走って来ました。
遂に、お互いに抱きしめて、ワンワン、泣き出しました。
私も、林善子も、姜明锡も、皆が、恥ずかしさ等考える余地もなく、
一緒に、強く抱きしめて、思いっきり泣き出しました。
運動場は一瞬、涙の海に成りました、、、 、、、

純友よ、純情よ、ありがとう!!
母校よ、青春よ、ありがとう!!




師範学校時代の全ての純友たちへ

師範学校時代4年間を同寝室で過ごした、
6歳年上の金貞玉、4歳年上の申福子、3歳年上の宋正姫、
我がままの私を、尖っている思春期の私を、優しく4年間包んでくれて、
本当にありがとう!!

そして、3年生の時に、別の寝室になった(寝室の小分けの故に)、
親友の、尹徳善、金七仙、鄭吉善、白順愛、、、
優しく責任感が強い、鄭香蘭、祭美善……
そして、クラスの兄の存在でした班長の池哲浩と金哲秀、
私と同じ年のシャイの胡光植、
私を追いかける男子学生を代弁して、私に説得を掛けた、文学少年の文光洙、
、、、 、、、

共の青春、ありがとう!!





10代のチャレンジは、続く!


18歳、中学校(母校)の歴史の教師と成る

当時代は、全ての職業が、政府によって配置される時代でした。
師範学校の純友たちとの、寂しいお別れの涙も乾く暇もなく、
母校の中学校の教師に配置され、社会の第一線に立ちました。
中学校2年生の、三つのクラスの歴史の教師と、
中学校2年1班の、担当先生を任されました。
途中で、音楽の教師も暫く兼任しました。

高校もある統合中学校でしたので、高3年生には未だ、
私より年上の学生もいて、中学校時代の同級生もいました
大学か短大へ再受験の為に、高3に留年してした学生達です。
教えている中二の学生達も、14~15歳くらいのほぼ同年代の学生でして、
学生達とは、有る時は先生に成ったり、ある時は友人に成ったり、新鮮さもあって、
教師生活は、基本的に楽しかったのですが、
負けじ魂の私は、常に、何か物足らなさも感じていました。
歴史教師としての知識と、中学校先生としての学歴でした。




19歳、延辺大学へ合格! 

大学にチャレンジする事に決めました。
当時の中国は、未だ、アルバイトの概念すらない時代でしたので
(当時は、政府から配置された職業が全て。)、
元々中学校時代の恩師である、当時の校長先生の金成万先生に相談して、
勧められたままに、先ずは、在職しながら通える、
延辺大学の、4年本科生の社会人クラスを受験する事に決めました。


1986年6月、第一回目の受験で延辺大学へ合格しました。
親友の金卒順も、一緒に受験を受け、一緒に合格しました。
夏休みの7月、大学の入学式の為に、金卒順と一緒に、再び、青春の故郷、
延辺・延吉市に向かいました。
此度は、幼い文学少女ではなく、成長した18歳の青年として、
大学生として、延辺大学に正式に入学しました。



但し、一学期で、延辺大学を辞める事に決めました。

延辺大学への入学直後に、私の心には大きな変化が起き始めました。
学びに新鮮さが無い延辺大学の社会人クラストと、
伸び伸びとできない窮屈な中学校教師生活を離れて、
もっと明るい世界、もっと広い世界へ、飛びたい強い気持ちでした。
当時は、中国の改革開放の初期で、変化を求める中国に、
世界中から新鮮な情報が、様々ルートから舞い散る時期でした。

新しい世界が見てみたい!もっと高く、もっと遠く飛びたい!!
私の熱望は切実でした。毎日考えました。その新しい道を。
遂に、解答が出ました!外国語を学ぼう!そう、日本語を学ぼう!
日本語には自信がありました。中学校から学んだ基礎がありましたので。
先ずは、外国語大学に入り、日本語を学び、日本に留学し……
必ず、明るい未来がある!!

それで、漠然と、中学校教師を辞めて、延辺大学を辞めて、
外国語大学に入って、日本語を学ぶ事に決めました。




最愛の母は、永遠なる私の最好の理解者、支持者!

私のこの切実な思いを、誰よりも理解してくれた人が、又も母でした。
母は、大胆にも、"入学したばかりの延辺大学を辞めて、
政府が配置した"鉄の職"である中学校教師を辞めて、
新しい道を歩む事(当時代では想像も出来ない無謀な行為)を、
積極的に、支持してくれました。
末っ子の一直通の性格を、誰よりも良く解る母でしたので。

母と一緒に、外国語大学と、入学出来る道を探しました。
母の切実な親心が神様を感動させたか、大変の幸運が訪れて来ました。
母の59歳誕生日祝いに、偶然に参加した母の友人が、
外大卒業後に中国南部都市の桂林(中国青年旅行社の分社)で仕事をしている、
自分の息子さんを私に紹介したいとの事でした。
そして、追加して、大学の授業料くらいは応援できるとまで話しました。

一機で、母の願いが、私の夢が、叶える道が開きました。
1986年9月、母の59歳の誕生日、私の19歳の希望の秋でした。




10代の幸運の文学少女、幸運の時代に感謝!


母の故郷、韓国・珍島からの、40年ぶりの嬉しい手紙!

19歳、私の新しい進路が決まった同時期に、
中国の改革開放により、我が家に、又の嬉しい便りがありました。
母が、故郷の韓国・珍島の実家へ手紙を出したところ、
何と、40年ぶりの、手紙の返信が届きました!!
母の両親は亡くなったものの、実の姉と弟が健在しているとの事、
幼馴染の従弟一人は、日本の大阪で、幸せに過ごしているとの事でした。
母は、何回も何回も写真を出して、見ながら、嬉しい涙を流しました。

未だ、中国と韓国の間に国交が無いため、
韓国を訪問することは出来ませんでしたが、
未来に希望がありましたので、母はとても喜びました。




時代と、賢明な時代のリーダーに感謝!

幸運の文学少女には、常に、感謝の気持ちを忘れませんでした。
豊かな勉学の時代、幸運の文学少女を創ってくれた時代と、
賢明な時代のリーダーに、心より感謝しておりました。
振り返えると、小学校から中学校まで8年間、そして師範学校4年間、
共8年間の学校生活で、授業料と寄宿舎料を支払った事は、一度もありません。
そして、4年間の師範学校は、授業料だけではなく、学食費も、
全額を国が負担してくれました。

コリアン系の中国人、いわば中国朝鮮族は、1980代まで、
教育の普及率が中国全国で、断トツ1位でした。
これは、中国共産党の大らかな抱擁政策と離せられません。
そして、中国のコリアン系の女子達は、勤勉で、清潔で、親孝行で、
家庭を確り支え、守る事で、中国全土でも認められたため(特に東北地方で)、
私は、日本に留学来た20代、後の30代の近くまで、
コリアン系中国人女子としての、強い誇りを、常に持っていました。

誰が何を言っても、中国政府の御恩は、忘れられません。
中国共産党の大らかなリーダーよる大愛の政策には、心より感謝です。
"世の中には、完璧な人がいない"事と同じく、
世の中には、完璧な政党も、完璧な組織も、勿論、完璧な国も存在しません。
但し、完璧に、完美に向かって、絶え間なく励む政党と組織は、多々存在しております。
我が母国の中国と中国共産党は、その中の一つだと思います。

我が最愛の母国が、第二母国の日本が、そして全世界が、
日々美しく、日々幸せに、先進しますように!人間愛・大愛に満ち溢れるように!
心より願います。人生を捧げます。




10代の幸運の文学少女・幸運の学び足跡図

地球上での、我が10代の幸運の足跡・学びの足跡は、
東の、中国・吉林省延辺朝鮮族自治州(中、朝、露、3国の国境地帯)から、
西の、中国の首都、北京まで、南は、大連半島の最南端・順義市まで。
未だ未だ、一つの小さな点に過ぎませんが、とても感謝しております。


ロゴマークがある処が、地球上の我が10代の幸運の足跡。
地球上では、未だ未だ、一つの小さな点に過ぎませんが、
とても感謝しております!




次回は、「太陽の女人――大愛の為に。夢見る東洋の花。第三章 覚醒 (20代~)」を、
お楽しみください。
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